そして誰もいなくなった。

書評、エロゲ―の批評等しています。感想、考察は基本ネタばれになります。閲覧にご注意ください。

<<書評>> -その他- 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」

 

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

 

 

エロゲ―界きっての、哲学ゲーと評される「素晴らしき日々」に興味を持つ人は、「論理哲学論考」という著作についても、興味を持たれているかもしれません。

 

とはいっても「論考」を、原文のまま、注釈ありで読んでも、まったく私は理解不能だったので、初心者でもわかるような解説本を探していました。

 

そのときに読んだのがこの本でした。ただ、この本は枝葉の解説本という訳ではなく、論考に通底するロジックと快感を、一般の読者にも追体験してもらえるような構成になっています。

 

かなり読み応えのある本で、私は序盤、パラパラとスムーズに読めてたのですが、章が進むにつれて読むのがキツくなって、飛ばし読みをしながら一通り読了しました。読後残ったのは、「よく分からん」の一言。

 

さすがに、これじゃアカンなと思って、とりあえず「素晴らしき日々」の哲学的考察にも関係しそうな、本書第13章「死について、幸福について」を読み返しました。一週目よりも理解できることが増えて、ちょっと面白くなってきて、二週目、三週目と読み返しました。すると第13章の背景になっているロジックも気になりだして、章を遡って読み返しました。おもしろいおもしろい。(索引が付いているので、言葉の定義も容易に再確認できます。)

 

結局のところ、第13章は6週ぐらい読み返しました。やっとこさ、なんとなく理解できた気がしています。

 

かなり含蓄のある本なので、サラっと読んでも分からないと思いますが、丹念に読み込めば、ちゃんと読者にも理解しやすいように、著述されていると思います。(とりあえずすごかったとしか言いようがない...。)

 

では、第13章が大好きなので(笑)わたしの理解している範囲で、内容を整理していきたいと思います。(だいぶ誤りがあるかもですが、私の思考の整理という意味でも書いておきたいと思います。)

 

1.神秘

 

論理哲学論考は、世の中の「語れるもの」「語りえぬが、指し示すことができるもの」「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものを分別した著作であると言えます。

 

みなさんが 、語ることができる範囲は、論理空間の中にしかありません。

 

論理空間とは、要素命題に真理操作をした言葉の集合空間と思えばいいです。

 

要素命題・・・「ポチは白い」などの単純な命題。

真理操作・・・命題が真となるような操作。(否定命題「ポチは白くない」のような命題も像【可能性。実体と必ず対応している】の一部だと著述されていますが、ここはよく理解できませんでした。)

集合空間・・・ヴァーチャル空間をイメージするといいかも。

 

 わたしの中での論理空間のイメージは、ヴァーチャル空間上に「ポチは白い」などの記述が浮かんでいるイメージです。

 

命題には、必ず実在する対象があります。対象の範囲内には、ポチなどの固有名も含まれますが、「~は白い」などの性質語、「~は兄弟である」などの関係語を含みます。

 

わたしが考えるに論理空間というのは、「目に見える可能的事態」のことなんじゃないかなぁと思います。(かなり大雑把に言っていますが)人が、語ることができるものは限られています。例えば、論理空間に位置する、論理語の「または」などは、論理空間上に「または」しか存在しない場合、指し示す対象がないので、その言葉単体ではまったくのナンセンスになってしまいます。

その意味で論理語は、「語りえぬもの(それ自体が実体を表さない)」になりますが、僕たちは、論理語のルールを理解しているので「語りえぬもの」ではありますが、「指し示すことができるもの」ではあります。

その他にも、「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」として、「無限」が挙げられます。1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?という問いがあった場合、私たちは、いちいち数を数えなくても、無限について直感が働くので、自然数になると解答することができますが、本当の意味で語るとなれば、一つ一つ証明しなければなりません。しかし、現実的に考えてそれは不可能です。なぜならそれが無限だから。

その意味で語ることは不可能ですが、無限になるという直感を指し示すことができるので、無限についても「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」になります。

 

では、「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものとは何でしょうか?

 

それが、ウィトゲンシュタインの言う、「神秘」です。この神秘の中には、いわゆる、『善悪、価値、幸福と不幸、あるいは美』、が含まれています。(ただ厳密にいうと「語りえぬもの」なので沈黙しなければなりませんし、「太郎が笑っている」だけでは、幸福が読みとれないように、「差し示されたもの」でもありません。)

 

さきほど、「1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?」という問いを挙げました。ここでわたしたちは「無限」を感じ取りました。おそらく、だれに問いかけても、「絶対に自然数になります!」と答えると思います。その意味で操作は「必然的」と言えます。その操作は、論理的な構造を持っているので、言いかえると「論理」は必然的と言えます。(必然"的"というのも言いえて妙です。)

 

論理が必然的であるのと同時に、必然的としか感じ取れない地点があります。

 

それは「神秘(幸福)」です。

 

幸福は、語ることも示すこともできませんが、でも「幸福」があるとはだれでも”感じます"。その意味で、必然的だと感じとれます。

 

もう少し掘り下げると、わたしの語ることができる範囲、を示す論理空間は、命題によって構成されています。命題というのは、すなわち真偽を問うことができるものです。例えば「あのほらけ」などの意味不明な言語はナンセンスであって、真偽を問うことができませんので論理空間の中には存在しません。

 

そもそも、なぜ真偽を問える必要があるのかというと、

 

一つは、「あのほらけ」のような、理解不能なカテゴリーを「はじく」ためだろうと思います。理解不能な言葉は、可能的事態、つまり論理空間を構成しません。

 

二つ目は、あらゆる事態(a、bは死んだ)を想定したうえで、命題とを答え合わせ(aは死んだ)するかのように照合して、そこから"可能的事態"(死んでいるものを、生きているなんて言えないでしょ。)をを探るためだろうと思います。

 

(ちなみに先に述べた、否定的命題は論理空間上にありますが、否定的事態は存在しません。例えば、「ポチは白くない」で考えてみましょう。いまわたしが論理空間、論理空間言っているのは、わたしたちが語ることのできるものも見極めるためです。それは現実の出来事も見ているだけでは何も"語れるもの"は見えてきません。あらゆる想定が必要です。つまり可能的事態を検証することが必要です。「ポチは白くない」は事態を現していますから、こう言い換えることができます。「ポチが白くない"可能性"」。と、考えてみると『え?それって結局白いの?白くないの?』と疑問が湧きます。おそらく白くないと言いたいのでしょうから、そうするとこう言い表すことができます。『ポチが白くない可能性がある可能性』(笑)『えっ?で、結局どっちなの?』etc...。という、無限後退につながるので否定的事態というのは存在しません。論理空間を構成する事態は必ず対象とリンクされていることが担保とされていなければなりません。その意味で否定的事態を捉えてみると、「ポチは白くない」というのはあまりにも漠然としすぎだし、命題との照合にも不適格であると考えられます。)

 

ちなみに論理空間というのは、わたしの経験によってでしか空間を張ることができません。他人の論理空間を知ることはできません。もしかしたら「他人」にとっては「あのほらけ」は有意味な命題なのかもしれません。

 

まぁ、それは置いといて、先ほど「経験」という言葉を使いましたが、「神秘」は経験によって感じるものなのでしょうか?答えは言わずもがな、「はい、そうです。」ということになるでしょう。ということは、神秘というのは、何も天から降っておりてきたものではない、ということです。わたしたちは、神秘というものを経験によって感じ取れるからこそ、神秘というものに必然性を感じ取ることができるのです。

 

2.幸福

 

論理空間を構成する、命題は「名」の集合で表されます。この名の中には、「個体名、性質後、関係語」を含んでいます。例えば「ポチは白い」で言うと、「ポチ」は個体名「は白い」は性質語ですね。では幸福はどうでしょうか?幸福は性質語なのでしょうか?

 

いえ、違います。私は論理空間を「目に見える可能的事態」と定義しておりますが、「幸福」は目に見えません。つまり実体がないのです。「太郎は笑っている」は目に見えますが、「太郎は幸福だ」は目に見えません。つまり笑っているからと言って幸福だとは限らないということなのですが、すなわち、命題を構成しないということは、論理空間上に存在しないということなのです。「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものなのです。

 

ウィトゲンシュタインは語ります。

 

「よい生とは永遠の相のもとに見られた世界である」

 

永遠の相とは、時間空間を超越して捉えること(例えば、カレンダーを俯瞰して眺めるような)という風な説明をどこかの知恵袋で見ました(笑)まぁ、その理解はともかくとして、ウィトゲンシュタインは論理空間を俯瞰することが、永遠の相のもとに見るということに他ならないと述べています。

 

論理空間は時間を超越しています。例えば、「ウィトゲンシュタインは小学校の教師をしている」も「ウィトゲンシュタインは亡くなった」も論理空間の中に構成されています。つまりこの「ウィトゲンシュタイン」という固有名は、生死の事実に関係なく不動の実在なのです。そのことを永遠の相のもとに見ると言います。

 

では、その永遠の相のもとに対象を見ることがどのように、よい生、すなわち幸福につながるのでしょうか?

 

が、この問いに答えはありません。なぜなら、幸福は「語りえぬもの」だから。

 

そこで、ウィトゲンシュタインは私たちに、メッセージを送ります。

 

 

---『幸福に生きよ!』---

 

 

"世俗的な意味でどれほど苦難に満ちた人生であろうとも、幸福は訪れるはずだ。この信念、この希望"

"幸福の本質はいっさいの現世的な状態とは別のところにある。"

 

作中で述べられたことを引用しました。世俗的とは、神秘的の対義語という認識が正しいです。つまり、神秘と対義するものだから、すなわち、私たちの論理空間を指しています。

 

わたしたちの論理空間のなかで、例えどんなことがあったとしても、それは幸福とはまったく関係がありません。だって幸福は「語りえぬ」ものなんだから。

 

だけど、わたしたちは"幸福"はあるように感じています。では私たちはどうすれば、よき生、幸福になれるのでしょうか?

 

それは、「幸福な人になる」ことです。トートロジー【((pではない)ではない)ならばp、のような、なにを入力したとしても真になるような、必然的なもの】は、左記にも述べたとおり、何が起ころうとも必然的に真であるように、幸福な人は「必然的に」幸福なのです。

 

"「何が起ころうとも幸福である」と言いうる地点に立つためには、幸福を、論理空間の内部において現れてくるような個人の境遇の一種にしてしまう訳にはいかない。ウィトゲンシュタインの言う幸福とは、論理空間がそこに根ざしている私の生におけるものであるだろう。すなわち、幸福を享受する主体は、永遠の相のもとに世界を見てとっている私にほかならない。"--P303--

 

「幸福でありたい」のなら、事実をもとに派生していった論理空間のすべての事柄について、「幸福だ!」と言い切らなければなりません。それは、論理空間を構成する過去、現在、予測される未来のすべてにおいて。

 

「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものは、すべて私たちの"意思"にゆだねられます。(ここにおいて、素晴らしき日々の、『心意気』というセリフの真意が理解できます。)

 

これは、ちまたによくある「なんでもプラス思考に捉えなさい」といった、単純なものではありません。

 

 

" 七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。"

 

 

語りえぬが故、沈黙せねばならない、その沈黙の内側から差しだされる、論理空間という『器』を、幸福に生きる『意思』で満たすこと。かくして「論考」全体を貫くウィトゲンシュタインのメッセージは、次の一言に集約されます。

 

 

---『幸福に生きよ!』---

 

 

 

 

<<書評>> -ライトノベル- 「異世界が嫌いでもエルフの神様になれますか?」

 

 いや~、おもしろかった。最近のラノベはレベルが上がってるんじゃないのか、と感じましたね。「囲恭之介」さんですか...。他の作品も買ってみようかと思います。

 

ストーリーとしては、王道な作りになっていますが、テンポよく読ませる筆力は見事で、業界的には頭一つ抜けてるんじゃないでしょうか?想像力も掻き立てられるし、王道ながら続きも気になるし、純粋に読書っておもしろかったんだなぁ(笑)と再認識するような作品でした。

 

あらすじ、としては

 

ファンタジーが嫌いでしょうがない寒原兵悟が、自宅のガレージに設置した操縦席型巨大筐体ゲーム「戦塵のエキスマキナ」というロボSFゲームをを立ち上げようとした時、通信エラーが生じて気付いたら異世界ファンタジーにぶっ飛ばされていたというのが事の始まり。

 

侵略戦争あり、裏切りあり、思想の対立あり、とまさに王道な感じですが、各々の思惑が錯綜して物語が進んでおり、まぁおもしろいです。

 

ちょっとあらすじがざっくりしすぎな感じがありますが、読後感想を書いていこうと思います。(ネタばれあり)

 

1.好きと嫌い

 

寒原兵悟は、SFロボから人気を奪っていったファンタジーというジャンルが嫌いでしょうがなかったわけですが、久しぶりに会話したファンタジー好き、等々力束とのやり取りで、自分がなぜこれほどまでにファンタジーというものを嫌っていたのかが判明します。

「・・・・・こういうのって難しいよね。何かを好きだっていう純粋な気持ちが、いつの間にか歪んじゃって、別の何かを嫌う気持ちにすり変わっちゃうんだから。」

SFロボが好きであるが故に、人気を奪っていったファンタジーを憎んでしまっていたわけです。何かを信じる余り、何かを排他的になってしまうのは、一歩引いて考えてみれば健全な態度ではないことは明らかでしょう。

わたしも、時間の無駄、って思って避けてきたことが多々ありますが、無駄だと思っていたことが、案外無駄ではなかったってことも、これからはあるのかもしれません。

 

2.偽善と善

 

一神教だったリリパット族にとって、オリジナルの存在(神)が、二体もいることは矛盾でしかありません。つまり、エルフハイムには神はまだ降臨していないか、もしくは神は元から存在しなかったということになります。どちらにせよ、デウス・エクスマキナという存在は神ではないことが、ピュティに明らかになってしまいました。

メルクライラは、その弱点を突きます。

「あの男は、どこか遠くの安全な場所からセカンド・クリスを操り、神を自称して私達にちょっかいを出しているのです。可哀相なピュティ。あなたは、はじめから裏切られていたのですよ」

「これまで、あの男があなたを助けてきたのも、自尊心を満たすための我欲にすぎません。無条件で慕ってくれる信者を救い、感謝されるのは、さぞかしいい気分だったでしょうね」

見栄を張りたいがために、承認欲求を満たされたいがために、この男はちょっかいを掛けてきたのだと非難します。

しかし、ピュティは、神ではなかった、デウス・エクスマキナを擁護します。

「それこそ、おかしいです!他人のために何かをするということは、相手を思いやる気持ちと共に、そうしたいと願う欲があって当然ではありませんか。このお方は、それを誰よりも分かっておいでですわ。自己満足だと仰いながら、わたくしのために戦ってくれる・・・・・とても優しいお方です。神様は!」

「何を認めないというのでしょうか?わたくしは、ずっと認めていますわ。このお方は、わたくしにとっての神様だと」

わたしの知っている言葉で、「偽善を積み重ねれば、いつか善人になれる」というものがありますが、そもそも偽善と善に違いはあるのでしょうか?

善、というのは社会的な意味での言葉だと思いますが、そんなもん個人が把握するのは不可能でしょう。(モラルは確かにあるでしょうが...。)

あらゆる善行に配慮することが不可能である以上、個人が行う行為は、「偽善」でしかないように思います。つまり、偽善はいいことです。

<<書評>> -ビジネス本- 「本は10冊同時に読め!」

 

 わたしが読んだのは、文庫本ではなく単行本でしたので、上記サンプル画像とは異なります。

 

個人的には、単行本の装丁の方が好きです。棚差ししているときの背表紙もインパクトがあって映えます。そういえば、以前読んだ、「借りたら返すな!」も背面は白、文字は赤でデザインされていましたが、この本も同じような構図ですね。はやりなのかな。

 

「本は10冊同時に読め!」ということで、なぜこんなことを主張するのかというと、それが結果的に、「速く・深く・多く」読める方法だから、というのが結論になります。一冊ぶっ続けで読んで読んでいると、途中で飽きがきてしまうことが多く、一冊読み切るのに時間がかかってしまったという経験が往々にしてあるかとと思いますが、飽きたら別の本、飽きたら別の本、というように本をサイクルしていくと、頭が切り替わるので集中力が持続し、結果的に「速く・深く・多く」読むことができるようになるとのことです。

 

他にも、「他の人が読まないようなぶっ飛んだ本を読め!」と主張されています。みんなと同じような本を読んでも、みんなと同じようなアイデアしか生まれない。その他大勢の人間と自分を差別化するためには、発想の豊かさ、つまるところ、脳の柔軟性が必要です。そのためには、「他の人が読まないような本」を「大量に読む」ことが必要だとのことです。

 

3回ぐらい読みなおしていますが、かなりこの本にインスパイア(笑)されました。これからはいろんな本をバランスよく読んでいきたいと思います。

 

 

 

<<書評>> -ビジネス本- 「IoT革命」

 

知らない間に世界が動いています。 知らないでは済まされなくなる世の中になる気がします。

 

★読書メモ

 

▼IoTとは、あらゆるものがインターネットにつながることをいう。

 

▼自動車業界に、GoogleApple、といったIT企業が参入を表明している。

 

▼セキュリティ関係の業界には、Safieという企業が、不審者を捉えると報告してくれるというサービスを、月額980円で提供している。

 

▼IoTは、発振子とセンサーがあればすべて可能になる。

 

▼「これからは”Internet Everything”だ」

 

ゲートウェイの意味が分からなかったので調べました。

 ゲートウェイとは、コンピュータネットワークをプロトコルの異なるネットワークと接触するためのネットワークノードである。

 プロトコルとは、コンピュータ同士が通信する際の手順などの約束事

 

▼デバイス関連では、台湾のフォンファイが高い技術を持っている。シャープを買収したことで一時期話題になったが、シャープの持つ技術力などとっくの昔に知っていた。

 

▼フィンティックの一番基本的な技術、ブロックチェーン。(はじめて聞きましたが、すごい技術ですね。)

 

Amazon Echo は普及しないと大前氏は見ているそうだ。その理由は、誰もいない空間で声を出しているということが、人間の生理にあわないから。

 

▼IoTによって、産業の垣根は消滅する。

 

スマートフォンは、全世界で二つのOSしかない。AndroidiOSだ。

<<書評>> -ビジネス本‐ 「あなたの会社がもらえる!補助金・助成金」

 

あなたの会社がもらえる!補助金・助成金 (DOYUKAN PRACTICAL BOOKS小さな会社がすぐに使える)

あなたの会社がもらえる!補助金・助成金 (DOYUKAN PRACTICAL BOOKS小さな会社がすぐに使える)

 

 昔、一度、補助金申請のための資料作成を手伝ったことがありますが、結構、面倒くさいというのが印象です。請求書、見積書、発注書、領収書....。出来あがった紙束は結構な厚みがありました。

 

面倒くさい作業ですけど、企業支援という意味で考えたら、税理士事務所の業務の範疇のような気がしますね。というわけで、補助金関係の本を読んでいます。

 

★読書メモ

 

補助金などの、公的支援施策については、「やる気のある中小企業」を支援するためのもの。なので、やる気のある中小企業に変わる必要がある。

 

▼では、「やる気のある中小企業」を国はどうやって区別しているのだろうか?その区別するために作られた法律が、「中小企業新事業活動促進法」である。この法律の承認を受けた企業については、「やる気のある企業」=「積極的に支援すべき会社」として、国のお墨付きを得たということになる。

 

中小企業新事業活動促進法は、中身が以下の3つに分類される。

 1、創業及び新たに設立された企業の事業活動促進

 2、中小企業の経営革新(本法律の主軸、重要)

 3、異分野の中小企業の連携による新事業分野開拓

 

中小企業新事業活動促進法の適用の承認を受けたら、どういった優遇措置があるか?

 1.信用保証協会の保証枠の引き上げ

 2.政府系金融機関による低利融資制度

 3.高度化融資制度

 4.小規模企業設備資金貸付制度の特例

 

▼各都道府県によっては、経営革新の承認を受けた企業に対して、補助金をだすところもある。

 

▼経営革新の法律上の定義

 経営革新とは、事業者が「新事業活動」を行うことにより、その「経営の相当程度の向上」を図ることをいう。

 「新事業活動」とは

  ・新商品の開発、又は生産

  ・新役務の開発、又は提供(3Dでリフォームした家の画像を見てから、オーダーできるようなシステムを開発して、顧客の拡大、売上の向上につなげる、など) 

  ・商品の新たな生産、又は販売方式の導入

  ・役務の新たな提供の方式の導入その他の新たな事業活動(従来のサービスの組み合わせの変更や、新しい業界の流れに対応するためのサービス形態の改善など幅広い。)

 

 「経営の相当程度の向上」とは

  1.「付加価値額」又は「一人当たりの付加価値額」の伸び率

   ・付加価値額=営業利益+人件費+減価償却

   ・一人当たりの付加価値額=付加価値額/従業員数

  2.「経常利益」の伸び率

  が、

  3年計画の場合、終了時点において、1.に掲げたどちらかの伸び率が、9%、かつ、2.に掲げた伸び率が3%を達成できるような、「事業計画」である必要がある。

 

×××××××××××××××××××××××××××

 

中小企業新事業活動促進法について、特に理解が深まりました。ちょっと導入は蛇足な気がしますが、分かりやすくまとまっていた良書です。

<<考察>> -エロゲ―‐ 「カルマルカ*サークル 夏目暦編」

 

カルマルカ*サークル 通常版

カルマルカ*サークル 通常版

 

 

たったいま、夏目暦編、クリアしました。

 

めっちゃ良い話でした。飽き癖の私がもう少し長くても良かったと思えるくらい、満足のいく完成度を誇っていたと思います。これでもう暦ちゃんとお別れと思うと、ちょっとさみしくなりますね...。

 

もともとカルマルカサークルについてはちょっと気になっていて、いいなぁとか思っていたんですけど、評判を見る限りでは評価が芳しくなくて手を出さずにいました。

 

ただ、最近私が疲れてきたのもあって、癒されたいという気持ちに軸が振れていたことから、絵柄のかわいい「カルマルカサークル」に元気をいただこうと思い、ようやく最近になってから購入を決意しました。

 

もともと私は、購入する前にどんな作品なのか?(シナリオゲー?キャラゲー?)どのくらい評価されているのか?を調べてから、購入する、しないの判断をしています。で、カルマルカサークルについては、「キャラゲーだろ。」という先入観を基にプレイしていました。私は、キャラゲーだと判断した作品をするときは、シナリオの不備、矛盾とかがあってもあんまり気にしません。シナリオを見ながら脳内アニメ化にしたりするので、細かいところが気にならなくなるからかもしれません。

 

シナリオゲーより、キャラゲーの方が、一文一文しっかり楽しもうというモチベーションでプレイしているので、どちらかといえば、キャラゲーの方が、キャラクターに愛着がわきます。今回のカルマルカサークルについては、その振れ幅がより顕著だったかなと感じているところです。(まだ暦しかしてませんが...。)

 

 

そんな感じで、暦。絶賛中です。

 

暦のストーリーについていろいろ語る前に、先にシステムの不満点から書いていこうと思います。

 

このコメントをさんざんとネット上に残してますが、

「最後にfinを入れろ!」

というのがまずコメントになります。余韻がぶった切れて現実に引き戻される感が半端ないです。暦との超えられない断絶を感じます。好きなキャラクターであるほどショックなのでどうにかしてほしいです。

 

今のところ不満点は...それくらいですかね。逆にそれ以外はすべて良いですね。

 

では本題ということで、考察ってほどでもないですが、感想を書いていこうと思います。

 

あらすじとしては(ネタばれ注意)

 

児童養護施設で育った夏目暦が、星渡り同好会のメンバーたちと出会って、児童養護施設への無償の寄付についての道徳的問題について意見しあったり、暦と同じ境遇にある親なき子の精神的なサポートをしたり、これからの自分の歩む道について考えたりするような話です。

 

人生的な広がりがあって、連続的につながっていると思っているので、あまり切り取って話してしまうと、それはそれで魅力を十分に伝えきれないような気がしますが、今回は、自分の歩む道についての暦の惑いのところについて思うところを書いていこうと思います。

 

 

1.『君は誰だ?』

 

私は、〇〇の子供で~、、、という説明をしたところで、それが「私」を語っていることになるのだろうか?その親が存在しなかったら?そしたらまた、自分を説明する枝番をつけないといけないことになる。私は、〇〇生まれで~、、、果たしてどこまで枝番をつければ私という存在を説明することができるのだろうか?

自明な解答だが、どこまで枝番をつけたとしても私を説明したことにはならないのである。枝番が消滅してしまえば、理屈の上で私という存在は消滅してしまう。

幼いころの暦はこの問いに賢い返事をした。

「・・・・・私は、だれでもありません。」

他のだれでもないということが、私の個性の証明になっているのだ。

この回答を聞いた師匠は、暦に対して「君」という存在について、一つの呼称をつけることにした。

「君は、私の弟子だ。」

 

2.自分の進むべき道は自分で決めないといけない。

 

暦は、幼いころから児童養護施設で育ててもらい、そして在籍する学園では特待生として奨学金を借りていたりと、あらゆる社会的な援助を受けて育って生きてきた。

そんな彼女に、研究者として留学してみないかという話が舞い込んできた。理事は留学するように強く進言してきた。葛藤はあったが、最後は留学を受け入れた。それが社会的に期待されていることだと暦は自認していたから。暦は今までの人生の重要な局面においては、みんなの期待に応えるような行動をとってきたに違いない。だって今まで、社会のシステムに直接支えられて生きてこられたのだから。

理事はあらゆる手を使って、暦を留学しようと手を回していたが、はたしてこの行動というものは批判されるべき対象なのだろうか?のちのちのテキストで、「教育者としての矜持、親心があったのかも知れない。」と海人が回想しているが、確かにその一面があることを私たちはふと忘れてしまうことがある。

海人は、社会的な価値基準の天秤に従った暦に、もう一度、自分の意思で選ばないかと説得する。「俺は、暦の選んだ道についていく。お前がどんな決断をしても、決しておまえを見捨てない。だから、なんとなくでもいい。あらゆる障害を取っ払って、気持ちの赴くままに答えを出してくれ。」

その説得を受けた暦は、一つの願いを口に出す。「もし・・・、わたしが心から望むことがあるとしたら・・・。」

「それは・・・、海人くんと、一緒にいることです・・・。」

一度堰を切った口からは、ぽつぽつと希望が口からあふれ出てくる。暦は自分には選択できる意思がない、みんなの希望に沿うように生きてきただけ、というようなことを言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか?大きな決断を迫られた時、無意識のうちに自分の願いを抑圧して生きてきただけではないのだろうか?

みんなの希望に沿って生きていくということは、すなわち、他人の選んだ道を歩むということである。果たしてその歩んだ道は、自分の歩んだ道なんだと誇りを持って言い張ることができるのだろうか?自分の人生を生きた、と納得することができるのだろうか?

 

 

3.「君は、私の弟子だ。」

 

師匠は、普通の人だった。自分の人生に迷いがあって、幼いころの暦が思うような完璧な存在などでは決してなかった。そんな人間が、あたかも自らを「師匠」として、暦に対し私が君の人生の道しるべとなる存在なんだと誤認させるような発言をする。暦にとって師匠は、幼少期を支えた大切な存在だったので、暦の精神的支柱であったことは想像にたやすい。

一連の騒動を終えた暦は、その発言の真意について一つの解をだす。

「わたしと師匠は異なる値をもつパラメータで構成された、同じ関数だったのではないでしょうか?」

「今の過程が正しければ、わたしが弟子である理由は不定です。」

「なぜなら、トートロジーに解はありません。」

暦が絶対的な信頼を寄せていた師匠でさえも、ただ普通の、この世に生きる一人の人間だったのだ。師匠、弟子なんてものは存在しない。人生を決めるのは、師匠ではない。人生を選び取るのは、暦自身だったのだ。

 

4.

 

Q.『君は誰だ?』

 

A.わたしは、わたしです。

<<書評>> -ビジネス本- 「税務調査の心得100」他

 

身近な事例とポイントで理解するQ&A税務調査の心得100

身近な事例とポイントで理解するQ&A税務調査の心得100

 

図書館で読んだ本です。

 

 なんというか、爺くさい感じの本でした。結構厚みがあります。

 

 

★読書メモ

 

相続税を計算の際は、通帳から入出金の内容を洗い出すことが大事。

入金があった場合→給与収入?土地譲渡収入?

出金があった場合→相続人等へ贈与?他の者へ贈与?装飾品の購入?有価証券の購入?

上記に該当するものがあった場合、それぞれの申告は済んでいるか?

給与収入→給与所得申告

土地譲渡収入→譲渡損益申告

相続人等へ贈与→贈与税の申告

他の者へ贈与→贈与税の申告

装飾品の購入→通常の物品なのか高額品なのか

有価証券の購入→取得価額と相続税評価額(評価時点の時価)との比較。

 

・法人だからって全部が経費になる訳ではない。一部を経費にするときもある。

重要なのは、『売上に必要な支出なのか?』

 

・家族に給与を支払う場合には、実際にその家族が業務に従事していることを証明することが必要。

 

 

スッキリかんたん図解で会計事務所の仕事が手にとるようにわかる本

スッキリかんたん図解で会計事務所の仕事が手にとるようにわかる本

 

 これも図書館で読んだ本です。こんなニッチな本があるとは思いませんでした(笑)勉強になりました。

 

 

★読書メモ

 

・個人が土地や建物を売却した場合には、年末調整で終わり、という訳ではなく譲渡所得の計算をしないといけないので、確定申告をしないといけない。

 

・登記業務ができるのは、会社の代表者か司法書士のみ。会計事務所はできない。

 

・法人は社会保険加入が義務。個人事業者の場合、従業員数が5名以上だったら社会保険加入義務が生ずる。

 

社会保険の算定基礎届は、毎年7月1日の在職者を対象として行われるもの。4~6月の給料の平均で保険料を算定する。算定した社会保険料は、10月分の給料から控除される。

 

・会計事務所のコンサルティングについて

 職員は経営者ではないので、経営については語ることはできない。なので社長にアドバイスできることとしては、『会計数値から読み取れるもの』『自分が経験したこと』『自分が自信を持って勉強したことをアドバイスすること』に限られる。

 

・昔は、インターネットがなかったので、紹介による集客が主だったが、最近はネットが普及しているため、ホームページによる集客が主流になってきている。

 

・会計事務所の1月の業務

 法定調書、償却資産税、給与支払報告書、源泉税の特納。

 法定調書は、税務署が税務調査の反面資料として収集するもの。

 給与支払い報告書は1月1日現在の住所地の市区町村に送らないといけない。(ということは、短期的に働いていた人は、現住所がどこにあるかも分からないので、給与支払い報告書を送らなくてもいいということになるんじゃないのか?)

 

・給与支払報告書は、総括表をつけること。