<<書評>> -その他- 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
- 作者: 野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 文庫
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エロゲ―界きっての、哲学ゲーと評される「素晴らしき日々」に興味を持つ人は、「論理哲学論考」という著作についても、興味を持たれているかもしれません。
とはいっても「論考」を、原文のまま、注釈ありで読んでも、まったく私は理解不能だったので、初心者でもわかるような解説本を探していました。
そのときに読んだのがこの本でした。ただ、この本は枝葉の解説本という訳ではなく、論考に通底するロジックと快感を、一般の読者にも追体験してもらえるような構成になっています。
かなり読み応えのある本で、私は序盤、パラパラとスムーズに読めてたのですが、章が進むにつれて読むのがキツくなって、飛ばし読みをしながら一通り読了しました。読後残ったのは、「よく分からん」の一言。
さすがに、これじゃアカンなと思って、とりあえず「素晴らしき日々」の哲学的考察にも関係しそうな、本書第13章「死について、幸福について」を読み返しました。一週目よりも理解できることが増えて、ちょっと面白くなってきて、二週目、三週目と読み返しました。すると第13章の背景になっているロジックも気になりだして、章を遡って読み返しました。おもしろいおもしろい。(索引が付いているので、言葉の定義も容易に再確認できます。)
結局のところ、第13章は6週ぐらい読み返しました。やっとこさ、なんとなく理解できた気がしています。
かなり含蓄のある本なので、サラっと読んでも分からないと思いますが、丹念に読み込めば、ちゃんと読者にも理解しやすいように、著述されていると思います。(とりあえずすごかったとしか言いようがない...。)
では、第13章が大好きなので(笑)わたしの理解している範囲で、内容を整理していきたいと思います。(だいぶ誤りがあるかもですが、私の思考の整理という意味でも書いておきたいと思います。)
1.神秘
論理哲学論考は、世の中の「語れるもの」「語りえぬが、指し示すことができるもの」「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものを分別した著作であると言えます。
みなさんが 、語ることができる範囲は、論理空間の中にしかありません。
論理空間とは、要素命題に真理操作をした言葉の集合空間と思えばいいです。
要素命題・・・「ポチは白い」などの単純な命題。
真理操作・・・命題が真となるような操作。(否定命題「ポチは白くない」のような命題も像【可能性。実体と必ず対応している】の一部だと著述されていますが、ここはよく理解できませんでした。)
集合空間・・・ヴァーチャル空間をイメージするといいかも。
わたしの中での論理空間のイメージは、ヴァーチャル空間上に「ポチは白い」などの記述が浮かんでいるイメージです。
命題には、必ず実在する対象があります。対象の範囲内には、ポチなどの固有名も含まれますが、「~は白い」などの性質語、「~は兄弟である」などの関係語を含みます。
わたしが考えるに論理空間というのは、「目に見える可能的事態」のことなんじゃないかなぁと思います。(かなり大雑把に言っていますが)人が、語ることができるものは限られています。例えば、論理空間に位置する、論理語の「または」などは、論理空間上に「または」しか存在しない場合、指し示す対象がないので、その言葉単体ではまったくのナンセンスになってしまいます。
その意味で論理語は、「語りえぬもの(それ自体が実体を表さない)」になりますが、僕たちは、論理語のルールを理解しているので「語りえぬもの」ではありますが、「指し示すことができるもの」ではあります。
その他にも、「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」として、「無限」が挙げられます。1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?という問いがあった場合、私たちは、いちいち数を数えなくても、無限について直感が働くので、自然数になると解答することができますが、本当の意味で語るとなれば、一つ一つ証明しなければなりません。しかし、現実的に考えてそれは不可能です。なぜならそれが無限だから。
その意味で語ることは不可能ですが、無限になるという直感を指し示すことができるので、無限についても「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」になります。
では、「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものとは何でしょうか?
それが、ウィトゲンシュタインの言う、「神秘」です。この神秘の中には、いわゆる、『善悪、価値、幸福と不幸、あるいは美』、が含まれています。(ただ厳密にいうと「語りえぬもの」なので沈黙しなければなりませんし、「太郎が笑っている」だけでは、幸福が読みとれないように、「差し示されたもの」でもありません。)
さきほど、「1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?」という問いを挙げました。ここでわたしたちは「無限」を感じ取りました。おそらく、だれに問いかけても、「絶対に自然数になります!」と答えると思います。その意味で操作は「必然的」と言えます。その操作は、論理的な構造を持っているので、言いかえると「論理」は必然的と言えます。(必然"的"というのも言いえて妙です。)
論理が必然的であるのと同時に、必然的としか感じ取れない地点があります。
それは「神秘(幸福)」です。
幸福は、語ることも示すこともできませんが、でも「幸福」があるとはだれでも”感じます"。その意味で、必然的だと感じとれます。
もう少し掘り下げると、わたしの語ることができる範囲、を示す論理空間は、命題によって構成されています。命題というのは、すなわち真偽を問うことができるものです。例えば「あのほらけ」などの意味不明な言語はナンセンスであって、真偽を問うことができませんので論理空間の中には存在しません。
そもそも、なぜ真偽を問える必要があるのかというと、
一つは、「あのほらけ」のような、理解不能なカテゴリーを「はじく」ためだろうと思います。理解不能な言葉は、可能的事態、つまり論理空間を構成しません。
二つ目は、あらゆる事態(a、bは死んだ)を想定したうえで、命題とを答え合わせ(aは死んだ)するかのように照合して、そこから"可能的事態"(死んでいるものを、生きているなんて言えないでしょ。)をを探るためだろうと思います。
(ちなみに先に述べた、否定的命題は論理空間上にありますが、否定的事態は存在しません。例えば、「ポチは白くない」で考えてみましょう。いまわたしが論理空間、論理空間言っているのは、わたしたちが語ることのできるものも見極めるためです。それは現実の出来事も見ているだけでは何も"語れるもの"は見えてきません。あらゆる想定が必要です。つまり可能的事態を検証することが必要です。「ポチは白くない」は事態を現していますから、こう言い換えることができます。「ポチが白くない"可能性"」。と、考えてみると『え?それって結局白いの?白くないの?』と疑問が湧きます。おそらく白くないと言いたいのでしょうから、そうするとこう言い表すことができます。『ポチが白くない可能性がある可能性』(笑)『えっ?で、結局どっちなの?』etc...。という、無限後退につながるので否定的事態というのは存在しません。論理空間を構成する事態は必ず対象とリンクされていることが担保とされていなければなりません。その意味で否定的事態を捉えてみると、「ポチは白くない」というのはあまりにも漠然としすぎだし、命題との照合にも不適格であると考えられます。)
ちなみに論理空間というのは、わたしの経験によってでしか空間を張ることができません。他人の論理空間を知ることはできません。もしかしたら「他人」にとっては「あのほらけ」は有意味な命題なのかもしれません。
まぁ、それは置いといて、先ほど「経験」という言葉を使いましたが、「神秘」は経験によって感じるものなのでしょうか?答えは言わずもがな、「はい、そうです。」ということになるでしょう。ということは、神秘というのは、何も天から降っておりてきたものではない、ということです。わたしたちは、神秘というものを経験によって感じ取れるからこそ、神秘というものに必然性を感じ取ることができるのです。
2.幸福
論理空間を構成する、命題は「名」の集合で表されます。この名の中には、「個体名、性質後、関係語」を含んでいます。例えば「ポチは白い」で言うと、「ポチ」は個体名「は白い」は性質語ですね。では幸福はどうでしょうか?幸福は性質語なのでしょうか?
いえ、違います。私は論理空間を「目に見える可能的事態」と定義しておりますが、「幸福」は目に見えません。つまり実体がないのです。「太郎は笑っている」は目に見えますが、「太郎は幸福だ」は目に見えません。つまり笑っているからと言って幸福だとは限らないということなのですが、すなわち、命題を構成しないということは、論理空間上に存在しないということなのです。「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものなのです。
ウィトゲンシュタインは語ります。
「よい生とは永遠の相のもとに見られた世界である」
永遠の相とは、時間空間を超越して捉えること(例えば、カレンダーを俯瞰して眺めるような)という風な説明をどこかの知恵袋で見ました(笑)まぁ、その理解はともかくとして、ウィトゲンシュタインは論理空間を俯瞰することが、永遠の相のもとに見るということに他ならないと述べています。
論理空間は時間を超越しています。例えば、「ウィトゲンシュタインは小学校の教師をしている」も「ウィトゲンシュタインは亡くなった」も論理空間の中に構成されています。つまりこの「ウィトゲンシュタイン」という固有名は、生死の事実に関係なく不動の実在なのです。そのことを永遠の相のもとに見ると言います。
では、その永遠の相のもとに対象を見ることがどのように、よい生、すなわち幸福につながるのでしょうか?
が、この問いに答えはありません。なぜなら、幸福は「語りえぬもの」だから。
そこで、ウィトゲンシュタインは私たちに、メッセージを送ります。
---『幸福に生きよ!』---
"世俗的な意味でどれほど苦難に満ちた人生であろうとも、幸福は訪れるはずだ。この信念、この希望"
"幸福の本質はいっさいの現世的な状態とは別のところにある。"
作中で述べられたことを引用しました。世俗的とは、神秘的の対義語という認識が正しいです。つまり、神秘と対義するものだから、すなわち、私たちの論理空間を指しています。
わたしたちの論理空間のなかで、例えどんなことがあったとしても、それは幸福とはまったく関係がありません。だって幸福は「語りえぬ」ものなんだから。
だけど、わたしたちは"幸福"はあるように感じています。では私たちはどうすれば、よき生、幸福になれるのでしょうか?
それは、「幸福な人になる」ことです。トートロジー【((pではない)ではない)ならばp、のような、なにを入力したとしても真になるような、必然的なもの】は、左記にも述べたとおり、何が起ころうとも必然的に真であるように、幸福な人は「必然的に」幸福なのです。
"「何が起ころうとも幸福である」と言いうる地点に立つためには、幸福を、論理空間の内部において現れてくるような個人の境遇の一種にしてしまう訳にはいかない。ウィトゲンシュタインの言う幸福とは、論理空間がそこに根ざしている私の生におけるものであるだろう。すなわち、幸福を享受する主体は、永遠の相のもとに世界を見てとっている私にほかならない。"--P303--
「幸福でありたい」のなら、事実をもとに派生していった論理空間のすべての事柄について、「幸福だ!」と言い切らなければなりません。それは、論理空間を構成する過去、現在、予測される未来のすべてにおいて。
「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものは、すべて私たちの"意思"にゆだねられます。(ここにおいて、素晴らしき日々の、『心意気』というセリフの真意が理解できます。)
これは、ちまたによくある「なんでもプラス思考に捉えなさい」といった、単純なものではありません。
" 七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。"
語りえぬが故、沈黙せねばならない、その沈黙の内側から差しだされる、論理空間という『器』を、幸福に生きる『意思』で満たすこと。かくして「論考」全体を貫くウィトゲンシュタインのメッセージは、次の一言に集約されます。
---『幸福に生きよ!』---