そして誰もいなくなった。

書評、エロゲ―の批評等しています。感想、考察は基本ネタばれになります。閲覧にご注意ください。

<<感想>> 「BADON 3巻」

 

 

今を生きていく中で、人生の楽しみの一つを挙げてくださいと言われたら、「半年に一度BADONの新作を読むことです」と言ってしまうくらい、この作品が好きだ。

 

もちろんのこと発売日当日からツタヤをチェックして、まだかなまだかなと楽しみにしていたのだが、結局丸善の方が早く並びそうだと思い立って店舗を覗いたところ、発売日翌日には見事店頭に並んでいたのでgetした。店舗の検索用のタブレットには在庫6冊ですと表示されているくせに、平済みしていたのはあと一冊だけだった。その最後の一冊を見つけたとき在庫の少なさに驚いたが、その幸運に俺は神を祝った。

 

...とまぁそのくらい好きな作品なのだが、思ったよりもブログに感想とか上がっていなくて驚いた。(おそらく書評メーターとかには上がっているのだろうが)それなら俺が書くことに意味あるな、と思った次第で文字起こししている次第です。

 

オノ・ナツメ氏のACCAは漫画的な構想の面白さがあったが、BADONはもっと人物よりの面白さが際立つ。3巻で言えば「友達」という主題がベースにあったと思うし、そういう人間の普遍的な関係性や夢などを描いている印象だ。

 

英国紳士、高級たばこ店、マフィア、経営、お酒、美味しそうな料理、人間関係の普遍的なテーマ(友情、償い...など)を描いていること...

 

こんなキーワードにピンと来た貴方はこの作品を買わなければならない。

 

ただ、こんなキーワード好きな人って割合低めな感じがするので、ざっくり言うと、小説を読んで面白いと思う人はこの作品も好きになれるかもしれない。アクションとか戦闘シーンが出てくるわけではないので、そういう刺激的要素が好きな人にとってはつまらない印象を持つかもしれないけど、特段そういうジャンルが好きなわけではない人にはお勧めしたい作品です。(プリミエラのみんなは仲良しなので殴り合いはしません。)

 

 

それでは感想を書いていきます。(ネタばれ注意)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2巻、3巻を読んで、ストーリーの構成の組み方がうまいな~、と思いました。大枠の核となる一個のストーリーの中に、プリミエラのメンバー一人の過去回想と、そのけじめ、結末が自然に組み込まれており、同時並行で物語が進んでいるためか、そのバードンという箱の中で本当に時間が進んでいるんだなぁと感じてしまう、自然な作りになっていました。

 

そして今回は新たに登場するキャラクターとして、リコ・ダイスのなじみの税理士が登場します。税理士事務所に勤めている身としては、こんなカッコいい世界の中に税理士が登場するのがとてもうれしいです。

 

そしてその税理士というキャラクターが世間一般の税理士の認識像みたいに見えて、興味深い側面があります。

 

ビジネスマンのようなスマートさがそこまで感じられず、ざっくばらんとしたもの言いの、固い印象を持つ人物像になっていました。良く言えば専門家っぽい。悪く言えば頑固おやじと言ったところでしょうか?

 

そしてただ専門家っぽいというイメージだけではなく、その根底には人情味を感じられる人物像になっていて、なるほどこれが世間一般の税理士像なんだろうなぁ、と思いました。そしてこれは私がカッコいいと思う税理士の姿でもあります。

 

 

それでは、印象に残ったシーンを振り返りたいと思います。

 

 

 

 

1.よその家庭で昼飯をご馳走になったハートが、仲の良い家族を目の当たりにして語った一言。「自分のクソのような家族を思い出して感慨深い」

 

エルモ、ラズががクソだったよ、と発言する流れで、最後にリコが新聞読みながらうちも「クソだったよ」と発言する流れが、ユーモアが利いてる。

 

 

 

2.老舗たばこ店「タットラー」の若き後継者、レニー・タットラーが、同じく富裕層子息の友人との集まりの中で、「レニーも切りのいいところで畳むつもりだろ、退屈しのぎの経営ゲームさ」と言われた時のレニーの表情。

 

一読目読んだときは、レニーもそういうもんなんかなと思って読み進めていたが、再読して読むと、あの表情には別の複雑な心境があったんだなと読みとれる。あの顔の構図というか、表情の描き方はうまいなぁーと感心してしまう部分である。

 

 

 

3.道端でばったり会った洋菓子店ハチクマの店長ドナから、今までどうやって女性を口説き落としていたのか私に試してみてよ、と提案されたリコが「本心から近付きたいと思っている相手には、何も出来ないんですよ」と言って、そのあと少し膝をかがめて、ドナの真正面に目線を合わせたあと「...みたいな感じですよ」とほくそ笑むシーン。

 

これはちょっと真似しちゃいますわw

そういう茶目っけがあるところも、大人の魅力の一部なんだと思う。

 

 

 

4.プリミエラを見物に訪れた税理士が、顧客の一人であるタットラ―の一族と偶然はち合わせて、その一族の退出後リコに「お前の素姓を知っているのか?」と言ったシーン。

 

「消せない過去についてか?」と言ったシーンでの税理士の表情が一読目では理解が及ばなかったが、再読してみると、「もともと囚人だったと言われたら困る」と言う意味でのあの表情だったのか、と理解が及ぶ。本巻でも説明済みだが、税理士としては顧客に囚人だった奴がいると知られてしまっては、営業上の信用失墜になるため知られてしまったら困るのだ。あの研ぎ澄まされた視線の鋭さにはそのような意味があったのだと思うと、深いなぁと思う。だからそのあとエルモが「仲悪いんだな」と言ってはいたが、おそらく単純な意味で仲が悪いということではなく、なんか歯車の合わない、どちらも本心をさらけ出せていない、そういう意味での気まずさだと私は解釈した。

 

 

 

5.たばこ業界の関係者が一堂に集まるパーティーでハートが、同伴者は美人が良いとたばこ職人ナッティから教わったので、ドナを連れてきたと何気なく言うシーン。

 

ちょっと照れくさそうにドナが「さらっと言ってくれるじゃないの。ヤッカラ流?」と尋ねた時「おかしなこと言ったか?」と反応するハートの生真面目さが面白さに繋がっている。そしてそのあとすぐ近くのたばこ職人から「案外女の扱いはお手の物か?」と話しかけられ「おかしなことは言っていない」と切り返すハートの反応。笑いを二度被せてくる高度なテクニックw

 

 

 

6.上記パーティーでレニーが、ハートらとの乾杯のあいさつに「たばこ業界の未来に」と言ってグラスを掲げたシーン

 

二重の意味で面白い。レニーはたばこ業界の未来を憂いており本心からこの業界をよりよくしたいという意味だったから乾杯のあいさつはコレになったし、ハートらから見れば、もともと闇たばこの製造に加担していたたばこ職人から一部商品を仕入れているため、業界のために手を引いてくださいと意味で乾杯のあいさつを受け取っていたに違いない。

 

 

 

7.リコは過去の自分のどこか嫌いだったのか?

 

はっきりと明示されているわけではないので主観的感想になるが、おそらくリコは自分の人生に虚無感、喪失感を感じていて、つまり生きがいがないわけだ。とはいっても勉強は好きだったみたいなので、喪失感とはいっても悲愴的な意味合いは薄く、もう少し軽いものだろう。そんな中、女性たちを騙して上手く利用することで「いつまでその日暮らしが出来るのか」というゲームに面白味を感じて、限界までその生活を続けた。ある意味それは生きがいとも言えるのかもしれない。その後その犯行がばれて訴えられ、法廷で今までの犯行をすべて話した。その不倫の事実を公に公表することこそが、相手に迷惑をかけるという意味で一番重い罪、だったはずだが、刑務所には「出所したら連絡してね」というメモが挟まっていた。おそらくそのメッセージを読んだ時、彼の生きがいだったそのゲームがそもそもゲームとして成立していなかったことを知り、俺の生きがいにしていたものは、スリリングだと感じていたものは、虚構のものだったのではないか、と。相手から求められていることが分かるからただそれをやってきただけなので、本当の自分はやりたいことのない空っぽで、その事実を突き付けられた気がして、その時、深く自分のことが嫌いになったのかもしれない。

 

 

 

8.エルモとリリーが料理本を眺めながら「コレ美味しそー!」「...今月使える食費を超えます」「じゃあコッチ!」と言うシーン。

 

単細胞的反応をするエルモが面白いしかわいい。

 

 

 

9.書店に寄った帰り道、リコが学校に通いたいときは遠慮せずに言ってね、と言うが、リリーはその気は無いようだ。「せめて同世代の友達が作れるといいな」と独り言のように呟いて、「友達ってやっぱり必要なものですか?」とリリーから尋ねられた時「俺はそう思うよ」と語りかけるシーン。

 

本巻の主題である友達というキーワードにリコが答えているシーン。これの面白いところは、本巻の初めの方からリリーが学校に通う気は無いことは作中で明らかにされているところだろう。本巻の主題である以上、どこかしらでリコがそのことについて触れる必要がある訳だが、それがこんな自然な形で触れられているというところは、奇跡的というか。上手い!と舌を巻く他ない。

 

 

 

10.アレン・グースとの再会を知ったレニーの祖父から、レニーに所感を語ったシーン。「...ひとつ私が勝手に感じたことだが、彼が心配していると言ったのはお前のことかもしれない。レニー」

 

本作で一番心情を読み取りにくいのはグースだろう。ひとつひとつの言動を紐解いていこうとした時に、「レニーが心配である」という視点を持てば、彼の行動の理解が進む。

そして、昔友達だったものが今現在も友達とは限らない、ということを示唆するシーンも興味深い。それはまた逆もしかりで、相手の中ではずっと友達ということもありうるのだ。

「私には計り知れないよ。生活が一変したんだ」

このセリフ、とてもカッコいい。

 

 

 

11.タットラ―の店舗で税理士とレニーが打ち合わせをするシーン

 

プリミエラについて尋ねられた時、正直に内情まで話してしまったことは、これはしょうがないことだと思う。タットラ―も顧客であるわけだから、相手がある程度調べを付けている状態では、信用問題上、正直に言うしかない。

 

 

 

12.「やり直すのだという意思を、私は受け取った」

 

はいきました大好きなところ。これねぇぇぇ,,,かっこよすぎません?俺も言ってみたいわ。

税理士はリコから電話が来ることはないと踏んでいたわけなのだが、というのも、自分の内情を多く見せてこなかったリコが、犯罪者というもっともプライベートな部分が明らかになったことから、知り合いに連絡をとるなんてことは予想してなかったからであろう。

しかしそれでも、自身の今の状況を伝え、共同経営者の罪状までも伝えたことに、本心からのリコ・ダイスという男を垣間見た気がして、力になろうと思ったのではないか?

「面倒事に巻き込まれる前に、私は退散しますよ」

この毒の利いたユーモアと、したたかさに税理士っぽさを感じるw

 

 

 

13.「友達.....、なってくれないか、もう一度」

 

昔、友達だったものと友達に戻りたいのなら、戻るのではなく、もう一度友達を始めるという観点は、私の今までにない視点だった。

友達と言うのは、同じような身分や雰囲気を共有しているから成り立つものなのではなく、興味関心が何かしら共通していること、それこそが友達になれる重要なファクターなんだと思う。

レニーとグースの共通の関心ごとと言えば、たばこだった。たばこを吸っている姿を子供ながらにカッコいいと思ったのかもしれない。それを象徴しているのが、大雪の次の日、ふたりで作り上げた立派な雪だるまの口元に差した一本のたばこに集約される。

 

 

 

14.「頼りにしてる」

 

プリミエラの助けになれるように、先行していろいろと手を回していた税理士。その行動の詳細を、コーヒー片手に目を閉じて聴いていたリコはどんな気持ちだったのだろう。

私は、前から「信用」とか「信頼」とか単語なんか嫌いで、今振り返ってみるとその言葉が薄っぺらいのだ。どっかのビジネスパーソン(笑)が「信用第一!」「今までの信用を築き上げた結果だ」というのをさんざん聞いてきたためか、額面通りには受け取るが、あぁはいはい、って感じになっていた。

そんな意識の中で、読んだこのキーワードは一読目ながらに深く得心がいった。「頼りにしてる」という言葉の中には、

「良い結果になるように考えをめぐらせて、率先して行動してくれる」

という意味が含有していて、それこそが社会でお金を貰う上で必要なことなのではないか、と思った。そしてそのことを「信頼」と言い、それを積み上げたものが「信用」になるんだと思う。まぁでも信用、信頼なんて言葉は気持ちの入らない、実体の入らない言葉に思えて私は率先して使いたくないけどね。

世の中の税理士はこの境地こそがあるべき姿なんだと私は思う。

また、会話の糸口にさくらんぼをプレゼントすることも上手いと感じた。ここでさくらんぼが繋がってくることもさることながら、お互いの思っていることを吐き出す糸口でもその演出は上手い。

そして、税理士が店のハガキを持ってこいというシーンがあるが、なぜ顧客に知られたくなかった税理士がそのような事を口にしたのだろうか、という点だが、その「頼りにしている」と聞いた時、ある意味自然にそれを実行していた税理士にとっては顧客のためにすることは当たり前だったはずだから、そう面と向かって言われたとき、素直にうれしかったのもあっただろうし、そしてその姿に友人だった頃のリコを感じ取って、純粋に力になってあげたいと思ったからなのではないか、と思った。

 

かつて友人だったものが友人でなくなって、再び友人となった。共通するのは、自分の思いを口に乗せること、自分の心を開く事なんだと思う。

<<感想>> 「コンビニ人間」

 

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 第55回芥川賞受賞作、「コンビニ人間」読了しました。

 

あらすじとしては、

 

コンビニ店員として働いている年齢36歳独身である古倉恵子は、世間で言われる「普通」という感覚を理解できない女性だった。「なんで結婚しないのか」「なんで就職しないのか」「なんで普通が分からないのか」・・・・・。周囲からはそのような視線を向けられるが、私には合理性を感じなかった。しかしながら、このコンビニには完璧なマニュアルがあるため、普通でない私にとって正しさを教えてくれる唯一の世界だったため、私はこの生活に充足感を覚えていた。

しかし、この生活にも転機が訪れる。久しぶりに集まった地元の友達との再会で、異物である私はいずれ排除されることをそこで予感し、そしてまた、今のこの生活を他の誰も望んでないことを知った時、彼女はある決意をする・・・・・

 

 

 

 

 

 

以下、ネタばれ感想です。

 

 

 

 

 

 

哲学的な話題として、「普通ってなに?」というワードが取り上げられることはよくあると思う。今回「コンビニ人間」を読んで、それについて思索が深まったとかそういう訳ではなく、異なる視点からこの作品を面白いと思った。

本質的に「合理性」を突き詰めていくと普通でなくなることは、本作を読めば納得がいくかと思う。彼女が他の会社に就職しない理由として、「他の仕事は完璧なマニュアルがないので正解が分からないからしない」というスタンスは、一見すると甘えの様にも見えるが、ある意味分からないことはしないというのも合理的な判断とも言える。

その彼女が、一度辞めたコンビニ店員を、誰にも求められていないと分かっていながらもう一度復帰しようとする姿は、不合理であったとしても選択してしまう「普通の人間」の姿だと私は思った。

物語が閉じたあとも生き続ける古倉恵子は、トラブルがあった以前に比べて、より生き生きとしているんじゃないか、そう思わせる爽快な読後感でした。

<<感想>> 「これは水です」

 

これは水です

これは水です

 

  分量がある本でないので、立ち読みで二回、自宅に帰ってきてから一回読み返しましたが、とてもすばらしい内容でした。

 こちらの本は、アメリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスが大学の卒業式に招かれ、卒業生たちにはなむけの言葉として送ったスピーチを文字起こししたもので、分量もそこまでないので、本を読みなれてない人であっても最後まで読み切れる内容になっていると思います。

 こういうスピーチの場では、卒業した後、社会人としていかに生きることが「正しい」のか、そういったテーマで話されることが多いと思いますが、ウォレスはそのひとつ前、そもそもその「正しい」と信じるその無意識を意識しなければならないと語っています。

 私はずっと前から、「本と言う媒体で世界中の人に自分の意見を表明するためには、童話しかない」と思っていて、なぜかというと、ある程度コンパクトじゃないと最後まで読み切らないだろう、というのが一点、そして笑いが必要だとも思っていました。笑いのない物語は先を読みたいという求心力が湧かないので、途中でほっぽり出される可能性が高いと思うからです。

 そういう認識があったので、この本を読んだときは衝撃を受けました。なるほど、スピーチを文字起こしするのも、分量も多くならないし、加えてこの本には笑いもある。幅広い世代に薦められる本です。人生が変わるなんで簡単に言うもんじゃありませんが、ものすごく大切なことを言ってると思うのです。

 私は彼が言うように、すべての人の毎日の生活が「退屈、きまりきった日常、ささいな苛立ち」というのは言いすぎだと思いますが、年月が経つごとに無意識を意識することが無くなっていくのは事実だと思います。

 無意識を意識することによって選択する。それはとても難しいことです。なぜなら今までの自分を否定することに繋がるかもしれないし、そして、今までと違う自分を表出することになるかもしれないから。

 しかし、この苦難を乗り越えた先には、「自由」があります。ウォレスは自由が正しいとか正しくないとか言ってるわけじゃありませんが、私はその自由は、とても大切なものだと思いました。私はその苦難の道を選びたい。

 自分の言葉で言語化するのが難しい本ではありますが、ぜひ読んでみてください。ウォレスは作家ですから、スピーチの構成も良いし、文章も良いです。この本は「社会的成功の仕方」について語った本ではなく、「自由」について語った本です。

 

 

<<感想>> -エロゲ―- 「ギャングスタ・アルカディア~ヒッパルコスの天使~」

 

 

 「ギャングスタ・リパブリカ」の続編である「ギャングスタアルカディアヒッパルコスの天使~」、本編クリアしました。リパブリカのFDというよりも、続編と思って頂いた方が良いです。

 

 あらすじですが、

 聖天義学園高校三年生であり、主人公時森叶の先輩に当たるシャールカ・グロスマノヴァの両親が仕事の関係で、東欧のイェドニアに出張することになり、残されたシャールカの生活の面倒を見てもらうため、叶家にホームステイするところから物語は始まります。シャールカを迎え入れたことによりいろいろとドタバタしますが、それでもいつもと変わらない平凡な日常を過ごしていました。そんな中ある日、叶とシャールカは道端に女の子が倒れているところを偶然発見します。叶達は声を掛けるとその娘は立ち上がり、聖天義学園の場所を尋ねたので道順を教え、その娘を別れました。

 その後、聖天義学園に臨時の講師として女性が赴任してきました。驚くことに、赴任してきた女性と言うのは叶達が道端に倒れていたところに声を掛けたその女の子、アマネでした。彼女はヒッパルコスタワーから赴いた天使でした。天使と言えば可能世界に号令をかけて演算した結果天気を予測したり、物理法則を捻じ曲げたりすることができる存在です。この世界では、天使と言う存在は当たり前のものとして受け入れられていました。

 そして、アマネが摂理額の講師として教便を執ると、この世界の当たり前として受け入れられている、固有ループや、共有ループの説明、摂理学の前提にもなる議論の実習などを行っていきます。そして時期を同じくするようにして、感染率の低いA型ディスサイクリアの流行が叶達の住むこの虹かけ台に急速に進んでいました。

 このA型ディスサイクリアの症状は、人のループ不全を引き起こすものであり、古河ゆとり家のメイド眞鍋 梨都子が感染するところから物語は動き出します―――

 

 

 

 

 

<<以降、ネタばれ注意>>

 

 

 

 

 

 sense off、猫撫、ギャングスタと元長作品に手を付けて来ましたが、ギャングスタアルカディアを終えた今、彼の主張というのは昔から変わっていないのではないか?と気付きがありました。以前の作品に比べてギャングスタアルカディアは、彼の主張がより分かりやすくプレイヤーに発せられていると思います。

 主義主張を前面に出した作品によくあるのが、キャラクター単体が唐突に語りだす作品です。そういう作品は、文章の背景に作者の意思を感じて嫌いなのですが、あくまでこの作品は一連のストーリーとして語りかけます。その技量は相当なものが必要だと思いますので氏に感心します。

  今回、ループが当たり前となっているフィクションの世界が舞台になっていますが、本編のエピローグの通り、語りかけているのは私たちプレイヤー本人です。私はその心意気が好きです。熱いものを訴えかけてくる、その子供の様なひたむきさが。

 

 

 

 1、なぜ、ループが当たり前という舞台設定だったのか?

 

 まず、ループすることが当たり前の世界とループしない世界を分けて、それぞれの世界で生じるであろう価値観を考えています。

 ループすることが当たり前である世界は、人生の多様性を理解できます。本作ではループ現象は毎度同じ経験を体験するのではなく、毎週少し違う経験をします。その「少し違う」ことを経験することによって、流動的な価値観を持ったいろんな人間がいることや、今の自分とは違う選択がありえることを理解し、それが多様性の理解につながります。しかし、ループするということは一回しか経験できないわけではないので、未来も過去もその価値が薄まります。なぜなら、未来も過去も複数回選択を重ねた結果になるからです。故にそこで生きる人間は現在により強い価値を持ち、主体的に選択や決断を行わなくなることを意味し、選択を行わないということは流されて生きていくことになりますので人格が喪失します。

 ループしない世界は、ありえた可能性を理解できない世界です。なぜなら一度しか経験できないからです。その世界では、過去や、未来に重きが置かれ、過酷な世界と言っても良いでしょう。

 今回、ループを取り上げることによって、いつの時点に重きを置くかが明確になります。

 

 2、納得と信頼

 

 叶は、アマネが人類からループを取り上げることを阻止しようとアマネに説得します。しかし彼はこの時点でどちらの世界が正しいあり方なのか判断が出来ていませんでした。それでもアマネに何か言うべきだと感じどうすべきかを考えます。ここで彼は何が正しいかよりもアマネの在り方について問題提議します。アマネは人間社会に溶け込むにつれ、果たしてこの世界の在り方を変えてしまうことに疑問を感じ精神的な分裂を起こしました。叶はその点を指摘し、超越的な立場である天使ならば、シャールカの納得を得ずとも無理やり連れ出せばいい。そこに悩んで分裂するのはおかしい、と語りかけます。

 「人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことをじつげんすること」

 「たとえ、間違っていても」

 アマネにとってその指摘は驚嘆に値するものでした。なぜなら、ループを取り上げることを肯定するのでもなく、否定するものでもなく、彼女自身のアイデンティティを問題にしたものだったから。彼は事の是非を選択することはできなくても、悪を信奉するものだったから、彼女のその振る舞いが悪として許せなかったのでしょう。

 結果アマネは叶に判断をゆだねます。おそらく彼女は分裂するくらいですから自分の判断は正しいと思っていても、若干の迷いがあったのでしょう。叶に説得された訳でも、納得した訳でもなかったですが、彼のその思いやりの強さに彼に人類の未来を委ねようと思ったのではないでしょうか?

 

  3、選択しないことと責任

 

 そして彼が、ループする世界を選択するか、ループしない世界を選択するかアマネに迫られたとき、彼は「どちらの世界も選択しないことことを選択」します。

 彼自身、傍観者なところがあり周りに流される性格でした。もともと彼が共和国を作りたかったのは、主体的に選択ができない理由からなのかと思います。

 選択をしない世界は、みんな適当に楽しんでいて深刻なことも超ハッピーなこともない、つまり運命に身を委ねる世界になります。

 その世界では実は責任が付きまといます。シャールカがなぜ苦しいと感じていたかと言うと、流れで叶と付き合うこととなったため、叶を好きだった他のヒロイン達と付き合う可能性が消失したことから、その気持ちの矛先を一身に受けるという意味で責任が生じます。だからシャールカは人前でいちゃいちゃ出来なかったし、叶の自宅でも行為に及ぶことができなかった。結局はどう生きても責任が及ぶということなのでしょう。

 

  4、幻想を現実に

 

  叶は、ずっと子供のままでいたいと心根では思っている人間です。彼は幼少のころ天使からループを取り上げられたあと、他の人間とは違うという疎外感を感じており、自分のアイデンティティを守るため、その反動から悪に傾倒するようになります。これは子供が自分を主張するために悪いことに走るのに良く似ています。

 出発点において、叶の悪は自らの傷を塞ぐための幻想だったのかもしれません。にもかかわらず、彼はその生き方に積極的な意義を見出し、周りの人間を巻き込んだ。この時幻想は現実になった。彼自身が悪であることを生きて示したことによって現実に昇華し、彼は信頼され彼の決断にみんなは従おうと思うようになった。

 

 5、人格

 

 叶えが選択したことによって、ループする世界が継続し、人々は選択をすることをやめ流されるように生きることとなり、やがて人格が消失していくことになります。それは子供の世界と言っても良いかと思います。

 それは、叶とシャールカの様な現在を重視して流されるように生きる、人格のない人間が世にあふれるということです。

 しかし、そもそも人格なんてあるのでしょうか?過去から現在、そして未来まで一直線で貫通するような人格ってあるのでしょうか?

 人間、価値観は経験、受け取り方によっていかようにも変わるものだと思います。連なっているように見えても、それは川に点在する飛び石のように、線があるように見えるだけのものだと思います。

 つまり、連続する人格なんてないのですから、他人についても確定的な何かであるとは言えないのです。

 『シャールカ先輩はかわいい → シャールカ先輩は俺にかわいいと感じさせる女の子だ』

 シャールカ先輩がかわいいという客観的事実があるのではなく、あくまで受け手である自分がかわいいと感じ取っているだけです。

 『俺の先輩への思いは、俺の中にあるんじゃない。俺の先輩への思いは、先輩の中にこそ存在する』

 この考えは、思いを相手に投げだしているように見えて無責任に思えるかもしれません。しかし逆に考えると分かりやすいです。

 『俺が先輩に愛おしいと感じさせている。だから、先輩を愛おしく感じさせている責任は俺にある』

 だから、相手から受けるすべての責任は発信源である自分なのです。相手は自分を映す鏡といった慣用句には、このように豊潤な意味を含んでいるのではないでしょうか。そしてこの事実に気付いたとき、自分の世界が広がったように感じませんか?

 

 6、※この物語は、フィクションです。

 

 ただし、例外として、連続する人格があります。それがエロゲ、小説などの物語や手紙です。それには地の文があります。それはセリフの連続性をつなげる役割があります。しかし現実は地の文を感じ取ることはできません。だからこそ、この現実では世の中に地の文はないこと、受けてによって感じ方が異なることを理解し、現実に相手の気持ちを感じ取る訓練が必要なのではないでしょうか?

 

 

 

 

・・・とりあえず、思いのたけを打ちまくりました。後日修正があると思いますのでそのつもりで。

<<感想>> -エロゲ―- 「ギャングスタ・リパブリカ」

 

 

WHITESOFT制作、第五弾「ギャングスタ・リパブリカ」、クリアしました。

 メインライターが元長柾木氏ということで、内容に期待しまして、約3年ほど前に購入しました。当時は希が好きだったので、とりあえず希ルートをクリアした後は、一旦放置していました。個人的に、キャラクター同士の主義主張の対立の場面が、ちょっとチープに思えて、全クリアする気が起きなかったのは、そこが原因だったと思います。

 今回、コロナウィルスの関係で自宅待機が叫ばれている関係で、時間に余裕ができたので、せっかくだから最後までクリアしようと、およそ一週間ほどかけて一通りクリアし終えました。

 前回感じたことは、やはり今回も感じるようで、主義主張の論戦があまり面白くなかったのですが、そこを除けば、やはり元長柾木ですから面白い。

 本作は、二部構成で、一部は普通にキャラゲーとして、キャラクターの内面を掘り下げていきます。そして二部のキャラクター同士の主義主張の論戦に持っていこうという感じがあり、1部はその前段階としての役割としてしか期待されていないように感じますが、ところがどっこい、1部、面白いです。

 感想を検索していくと、1部の評判があまりよろしくないのですが、どういう訳か私は好みでした。BGMも良いし、ホップアップ式のテキストボックスも読みやすいし、童心を思い出すような叶の言動も好きでした。WHITESOFTはもう自然消滅してる感がありますが、このホップアップ式のテキストボックスは革新的なシステムなので、他のところでも採用されると良いと思います。

 では、あらすじですが、

 

 主人公、時森叶が幼少のころ、大事な妹である時森希が迷子になった。電話は繋がるが、自分の力ではどうすることができない希を、自宅まで連れ帰ってきたのは一組の男女だった。叶がお礼を言おうとするとその男が

 「礼だったら不要だ」

 「悪は畏怖されるもの。礼など不要だ」

 と遮られてしまう。当惑する叶に善のヒーロー、悪のヒーローについて語る。善のヒーローは人々から共感されるが、悪のヒーローは人々から共感されない。であるからこそ、悪のヒーローは人々から制約を受けず、この世界を変えることが出来る。この言葉はとあるベストセラー作家の言葉を借りたものだった。

 「悪とは、『人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことを実現すること』」

 それが男の語る悪の定義だった。

 「悪を・・・自分のものにしてみないか?」

 

 その後しばらくの時が経ち叶は聖天義学園の高校二年生になった。叶は6月のとある日、かねてより学生間で噂になっていた雑貨屋兼喫茶店に入る。

『心のなかのガラクタを捨てられないのなら、あの店を訪れるといい。』

『いつか、仲間にめぐり逢える』

 そんな噂を真に受けたわけではないが、叶はそこで魚のキーホルダーを購入した。

 数日後、ショッピングセンターの外のベンチに腰掛け魚のキーホルダーを弄んでいた時、同じ聖天義学園に通う一つ年上の古雅ゆとりから声を掛けられる。

 「ガラクタが・・・あるのね。」

 「人とは違う何かが、心の中に」

 「みんなが捨てていったものが、捨てられないのね」

 そして、唐突に言った。

 「『仲間』に、ならない?」

 

 ・・・その後、聖天義学園にギャング部は結成された。あの店で買ったキーホルダーを手にした者たちが部員として集った。叶にはこの部活で達成したい目標がある。「悪の組織を作ること。そして、悪が世界を変えること。」それはあのときの男の在り方に、あこがれていたからなのかもしれない。

 こうして『悪党どもの、共和国(ギャングスタ・リパブリカ)』が始まりの鐘を告げる。

 

 

 

 

 

 

≪以下、ネタばれ注意≫

 

 

 

 ライターが元長柾木なので、内容を理解するためには毎度のことながら周回プレイが必要になってきます。sense off然り。猫撫ディストーション然り。スルメをかみしめるように、じっくり味わい尽くしましょう。

 禊、こおりのGENESISルートは謎。禊GENESISは一部禊ルートの続きになる位置付けですが、禊GENESISは叶がループ可能な世界。こおりGENESISは叶がループ不可能な世界にいます。禊GENESISについても、叶がヒッパルコスの天使と関わり合いがあったことは作中から読みとれますから、矛盾しているのはこっちと言えましょう。

 物語の構造が不明であるためその考察は脇に置いて、作中で出てくるテーマについて、作中の言葉を用いながら、感想を書いていこうと思います。

 

1.こおり2部ルート 『背負っているもの』

 禊は宮司としての過去、ゆとりは膨大な資産、希は天才的な頭脳を持ってこの世に生を受けている。これら境遇、能力に共通するのは、『他の人と比べて特別』ということだ。特別であるからには背負わなければならないものがある。しかしそれでも一般人からしたらその境遇は羨ましいものだ。あおいは普通の女の子だ。ただ人よりも世渡りが上手で、勉強も出来て、頼りにもなる。でも普通の女の子だ。

 叶も『特別』だった。年齢の割に子供っぽいところがあって、他人の目を気にすることなく自由に振舞う様は、ある意味特別な存在と言えよう。

 そんな面々が集まるギャング部において、『普通』であるこおりは劣等感を抱いていた。『特別』であることで繋がる連帯感の自分だけが枠外にいるのではないかと思ったからだ。だから大好きな叶を奪いかねない特別な禊が、ゆとりが、希が憎かった。

 だが叶はその認識を否定する。

 「こおりみたいに成績よくなかったから、進む道は、早々に分かれるものと思ってた」

 「聖天義に来たのは、半分はこおりのためだし、こおりのおかげでもある」

 「だから、俺が今ここにいるのって、こおりが背負ってくれてるおかげなんだよ」

 何も背負っていないと思っていたこおりだったが、実際にはその背後を必死に食らいついてきた影があったのだ。自分は特別なところなんてないと思っていても、他人から見たら特別に見えることもあるのかもしれない。

 

2.心のガラクタ、悪の組織

 

 心のガラクタとは何だろうか。作中の言葉を借りれば『みんなが捨てていったもの』つまり、人間の成長過程で普通は捨て去ってしまうものの総称だろう。それが捨てられない人達だったからギャング部に集まってきた。叶は『悪が世界を変える』禊は『統治者としての自覚』こおりは『人間関係の潔癖さ』ゆとりは『無垢』希は『子供の論理』左記は、作中で明示されたものでないので私の予想ではあるが、とにかく、大人になる過程で捨ててしまう、というと語弊があるが、制御できてしまうものである。

 そんなガラクタを抱えた彼らが悪の組織を作ろうとする理由は、人間は一人では世界を変えることは出来ないと分かっているからではないか?心のガラクタは悪に通ずる。何故ならそれが他人には理解されないからだ。他人には理解されないガラクタだが、同じものを持つ者にとっては同志の証。だからそのコミュニティ内ではガラクタはガラクタではなくなり、それぞれの信念となる。彼の求めるリパブリカは、そこにある。

 

3.悪は世界を変えることができるのか

 

 いや、悪だからこそ、すばやく世界を変えることができるのだ。

 悪は『公平を追求する必要がなく』

 悪は『はっきりした思想信条を持たない』

 悪を信じるものは、一般的に共感されないから、孤独で、孤高の道となる。でもその価値観を共感しあえる仲間がいるのであれば、そのガラクタは自分一人だけのものではなくなり、揺るぎない信念として、世界を変える力になるはずだ。

<<感想>> -ライトノベル- 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。14」

 

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」シリーズ、堂々の完結。

 

やっと終わったのかという思いとともに、このシリーズの1、2巻を購入した日のことが脳裏に蘇ります。

あれは、福岡のまんだらけでした。ちょうど1期の放送時期だったこのアニメを見て、「なんだこれめちゃくちゃおもしれえじゃん!」と興奮し、原作を調べてチャリ漕いで買いに行ったのを思い出します。

もともと、漫画もラノベも本すら読んでこなかった自分ですので、まんだらけに入ったのもそれが初めてでした。

入ってみて衝撃的だったのは安い!ということ。中古なので今思うと当たり前ですが、バイトも最初のころはしてなかったので、あの安さはありがたかった。親のすねを齧り、背徳感から買ったこのラノベは最高におもしろかった。

 

あれから6、7年ぐらい経って、今ではいろんな本に手を出していますが、僕の中で、感動した読書体験としてはこれが初めてで、ルーツともいえる作品でしたから、今でも少なからず影響を受けている部分はあると思います。

 

例えば、八幡は成長意欲に欠けている部分があり、一般的に見たらそういう人は好まれない傾向にありますが、彼にしてみれば「今の自分を肯定しているから、変わらないといけないところなんてない」と持論を展開する有様で、それを読んだときはもう衝撃的で、笑いながらも得心がいって、ちょっと前までは僕の持論になっていたまであります。

 

そんなルーツとも言える作品が完結したという訳で、あの頃の懐かしさに思いを馳せながら※ネタばれ※感想を下記にしたためたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

1.表紙裏コメントの件

 先に申しあげますと、感想は批判的な部分が多めです。で、表紙めくって裏のコメントを読んで気になったことが一つ。

 ぽんかん⑧氏「・・・(省略)・・・読者のみなさま・・・(省略)・・・本当にお疲れ様でした!」

 なんだよ読者にお疲れさまって。読むのにお疲れ様ってこと?待ちくたびれたという意味でなら確かに疲れたよ...。

 

2.なぜ雪ノ下を選んだのか、なぜ由比ヶ浜が選ばなかったのかを文中で明らかにしてほしかった。

 僕はあまりキャラクター単体には愛着を持つタイプではなく、少し引いて見るところがあるので、いわゆるどちら派みたいな派閥はないから、どっちとくっついても良かったのだけれども、なぜ雪乃下を選んだのか、なぜ由比ヶ浜が選ばなかったのかの理由付けが欲しかった。僕から見れば、雪ノ下も由比ヶ浜もどちらも素敵な女の子で、どちらにも尊い価値がある、という意味で等しく等価値で、八幡にとってもそうに違いないんだから、そこはけじめを付けて欲しかった。まぁ今までの流れで、八幡が雪ノ下を尊敬している節があったから、雪ノ下に惹かれるというのも分かるけどね。

 

3,自意識の殻を破って

 最後まで本物を追い求めた八幡。本物の意味を彼の言葉で意訳するなら、間違いのないもの、普遍的に変わらないもの、といったところかと思いますが、この奉仕部の出会いがなければ彼の言う本物を手に入れることはできなかったと思います。彼は強烈な自意識がありますから、この出会いがなかったら自分自身の正しさを信じて疑うことはしなかったでしょう。本物の価値は自分の中にあるものではなく、実際に触れた感触、つまり、他人との関わり合いの中でこそ本物の価値に気付くのではないでしょうか。僕が見て感じたことと他人が見て感じることは違うことがままにあります。この小説の感想だって、片一方の人にとっては最高のラノベだったと興奮冷めやらぬうちに書評を書く人もいれば、もう片方の人にとってみれば最低のラノベで、不満点をあげつらってボコボコにしてしまう人もいます。そういった自分とは異なる意見をネットではなくてリアルで体感し、自分に今までなかった視点を得ることが僕は大人になることだと思いますし、それこそが本物を見つけることに繋がると思うのです。それを見事に八幡の背中が語ってくれたんじゃないでしょうか?

<<感想>> -アニメ- 「ACCA13区監察課」

 

 

原作全6巻既読。入口はアニメからでした。

 

滲み出る、渋いオシャレ感。これは好きな人にはたまりませんわ。ハードボイルド系の作品で良くあるアメリカン・ジョークとは違った趣がある。僕はアメリカン・ジョークがあまり好みではなくて、というのも、オシャレ感を全面に主張しているように感じられダサく感じるからだ。ACCAの雰囲気はそういう取ってつけたようなオシャレ感ではなく、生来のものだと感じる。アニメのOP、EDはこの作品のためだけにバンドを組んで作曲しているのはよく知られた話で、このACCAに対するスタッフの思い入れの強さを示しているだろう。他作と一線を画す特別な作品であることの証拠だ。

 

以降は完全にネタばれであるため、閲覧には注意していただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

一連のクーデター騒ぎは、クヴァルム院長と、アーベントの策略によるものだった。

 

結果的に出来すぎなくらい上手く事が運んだが、あえてここで作中通り事が運ばなかった場合について考察してみることには意味があると思う。それによりこの策略が偶然の産物であったのか、それとも隙のない完全な計画だったのかを検証することが出来る。

 

一つだけ取り上げてみたいと思うが、第6巻のACCA100周年記念日前日にクーデター打ち合わせの集会を開き、当初の計画では式典当日に王位継承権をジーン・オータスに譲らせるという算段になっていたが、シュヴァーン王子が譲らないと意固地になる可能性があるので、後日誓紙をもって誓わた方が良いのではないかと、ジーン・オータスは提案した。

 

リーリウム長官は一応納得はしていたが、僕は、ACCA100周年記念式典当日に、公の場で、シュヴァーン王子に誓約を誓わせることには意味があるように思う。リーリウム長官がそれに固執することも十分に考えられたのではないか?だからこそ、あえてここで、ジーン・オータスが王家の血筋を引いていること、シュヴァーン王子に国王にならないと誓わすことを公の場で発言した場合について考えてみたい。クヴァルム院長が記念式典当日に照準を合わせていたことは間違いないと思うが、ACCA側の言動についてまで予測するのは不可能なはずだ。どう転んでも望む結果が得られたのかを考えてみる。

 

1、ジーン・オータスが王家の血筋を引いていること、シュヴァーン王子に国王にならないと誓わせることを公の場で発言する。

 

2、リーリウム家以外の各区有力者たちは、シュヴァーン王子が即位することを望むので、当日中にこのクーデターは茶番だと誰かが発言するだろう。発言はひっくり返せない。なぜなら、大々的に放送されているからだ。だからリーリウム家は必ず負ける。シュヴァーン王子はACCAの存続は認めるだろう。

 

3、ジーン・オータスが王家の血筋を引いていることを完全なデマだと国民に信じ込ませるのは普通は難しい。火の無いところに煙はたたない。しかし、このクーデター自体が壮大な茶番なのだ。国民は気に留めないかもしれない。

 

 いや、もしかすると当初の計画の場合は、リーリウム長官が発言するのを遮ってモーヴ本部長が語り始めるだろう。やはりリーリウム家の負けだ。

 

 ACCA100周年記念式典時にクーデターを起こすこと、ジーン・オータスが王位を継ぐと主張しないことをクヴァルム院長は読んでいただろう。しかし、これが茶番であると発言することまでは読めていたのか?真相はどうであれ、このクーデターは茶番でなければならない。そして、ジーン・オータスが王家の血筋を引いていることを明らかにしてはならない。なぜなら、シュヴァーン王子が即位することを国民はあまり望んでおらず、ジーン・オータスが血筋を引いてると知れば、世論は一気にジーン・オータスを国王にすべしと傾くからだ。

 

 となると、クヴァルム院長はこの茶番の演出まで読んでいたことになる。ここまでくると推測というには、希望的観測が過ぎるような気がするのは僕だけだろうか?がしかし、この解決法しかありえないのは理解できる。

 

 

 

 上記のような疑問が残るものの、面白い作品であるのには違いない。伏線散らかりすぎかなと思っていたが、最後に上手く回収できていた。

 

 先日、ACCAの世界観を共有する「BADON」が発売された。タイトルからしてやられた、とクラッときたが、内容もやはり面白い。月刊誌を買わないので、次巻発売が2020年の4月予定とまだまだ先で残念ではあるが、発刊をしばし待とう。