そして誰もいなくなった。

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<<感想>> -エロゲ―- 「ギャングスタ・アルカディア~ヒッパルコスの天使~」

 

 

 「ギャングスタ・リパブリカ」の続編である「ギャングスタアルカディアヒッパルコスの天使~」、本編クリアしました。リパブリカのFDというよりも、続編と思って頂いた方が良いです。

 

 あらすじですが、

 聖天義学園高校三年生であり、主人公時森叶の先輩に当たるシャールカ・グロスマノヴァの両親が仕事の関係で、東欧のイェドニアに出張することになり、残されたシャールカの生活の面倒を見てもらうため、叶家にホームステイするところから物語は始まります。シャールカを迎え入れたことによりいろいろとドタバタしますが、それでもいつもと変わらない平凡な日常を過ごしていました。そんな中ある日、叶とシャールカは道端に女の子が倒れているところを偶然発見します。叶達は声を掛けるとその娘は立ち上がり、聖天義学園の場所を尋ねたので道順を教え、その娘を別れました。

 その後、聖天義学園に臨時の講師として女性が赴任してきました。驚くことに、赴任してきた女性と言うのは叶達が道端に倒れていたところに声を掛けたその女の子、アマネでした。彼女はヒッパルコスタワーから赴いた天使でした。天使と言えば可能世界に号令をかけて演算した結果天気を予測したり、物理法則を捻じ曲げたりすることができる存在です。この世界では、天使と言う存在は当たり前のものとして受け入れられていました。

 そして、アマネが摂理額の講師として教便を執ると、この世界の当たり前として受け入れられている、固有ループや、共有ループの説明、摂理学の前提にもなる議論の実習などを行っていきます。そして時期を同じくするようにして、感染率の低いA型ディスサイクリアの流行が叶達の住むこの虹かけ台に急速に進んでいました。

 このA型ディスサイクリアの症状は、人のループ不全を引き起こすものであり、古河ゆとり家のメイド眞鍋 梨都子が感染するところから物語は動き出します―――

 

 

 

 

 

<<以降、ネタばれ注意>>

 

 

 

 

 

 sense off、猫撫、ギャングスタと元長作品に手を付けて来ましたが、ギャングスタアルカディアを終えた今、彼の主張というのは昔から変わっていないのではないか?と気付きがありました。以前の作品に比べてギャングスタアルカディアは、彼の主張がより分かりやすくプレイヤーに発せられていると思います。

 主義主張を前面に出した作品によくあるのが、キャラクター単体が唐突に語りだす作品です。そういう作品は、文章の背景に作者の意思を感じて嫌いなのですが、あくまでこの作品は一連のストーリーとして語りかけます。その技量は相当なものが必要だと思いますので氏に感心します。

  今回、ループが当たり前となっているフィクションの世界が舞台になっていますが、本編のエピローグの通り、語りかけているのは私たちプレイヤー本人です。私はその心意気が好きです。熱いものを訴えかけてくる、その子供の様なひたむきさが。

 

 

 

 1、なぜ、ループが当たり前という舞台設定だったのか?

 

 まず、ループすることが当たり前の世界とループしない世界を分けて、それぞれの世界で生じるであろう価値観を考えています。

 ループすることが当たり前である世界は、人生の多様性を理解できます。本作ではループ現象は毎度同じ経験を体験するのではなく、毎週少し違う経験をします。その「少し違う」ことを経験することによって、流動的な価値観を持ったいろんな人間がいることや、今の自分とは違う選択がありえることを理解し、それが多様性の理解につながります。しかし、ループするということは一回しか経験できないわけではないので、未来も過去もその価値が薄まります。なぜなら、未来も過去も複数回選択を重ねた結果になるからです。故にそこで生きる人間は現在により強い価値を持ち、主体的に選択や決断を行わなくなることを意味し、選択を行わないということは流されて生きていくことになりますので人格が喪失します。

 ループしない世界は、ありえた可能性を理解できない世界です。なぜなら一度しか経験できないからです。その世界では、過去や、未来に重きが置かれ、過酷な世界と言っても良いでしょう。

 今回、ループを取り上げることによって、いつの時点に重きを置くかが明確になります。

 

 2、納得と信頼

 

 叶は、アマネが人類からループを取り上げることを阻止しようとアマネに説得します。しかし彼はこの時点でどちらの世界が正しいあり方なのか判断が出来ていませんでした。それでもアマネに何か言うべきだと感じどうすべきかを考えます。ここで彼は何が正しいかよりもアマネの在り方について問題提議します。アマネは人間社会に溶け込むにつれ、果たしてこの世界の在り方を変えてしまうことに疑問を感じ精神的な分裂を起こしました。叶はその点を指摘し、超越的な立場である天使ならば、シャールカの納得を得ずとも無理やり連れ出せばいい。そこに悩んで分裂するのはおかしい、と語りかけます。

 「人がそうしたいと思うのとは違うやり方で、人がそうなりたいと思うことをじつげんすること」

 「たとえ、間違っていても」

 アマネにとってその指摘は驚嘆に値するものでした。なぜなら、ループを取り上げることを肯定するのでもなく、否定するものでもなく、彼女自身のアイデンティティを問題にしたものだったから。彼は事の是非を選択することはできなくても、悪を信奉するものだったから、彼女のその振る舞いが悪として許せなかったのでしょう。

 結果アマネは叶に判断をゆだねます。おそらく彼女は分裂するくらいですから自分の判断は正しいと思っていても、若干の迷いがあったのでしょう。叶に説得された訳でも、納得した訳でもなかったですが、彼のその思いやりの強さに彼に人類の未来を委ねようと思ったのではないでしょうか?

 

  3、選択しないことと責任

 

 そして彼が、ループする世界を選択するか、ループしない世界を選択するかアマネに迫られたとき、彼は「どちらの世界も選択しないことことを選択」します。

 彼自身、傍観者なところがあり周りに流される性格でした。もともと彼が共和国を作りたかったのは、主体的に選択ができない理由からなのかと思います。

 選択をしない世界は、みんな適当に楽しんでいて深刻なことも超ハッピーなこともない、つまり運命に身を委ねる世界になります。

 その世界では実は責任が付きまといます。シャールカがなぜ苦しいと感じていたかと言うと、流れで叶と付き合うこととなったため、叶を好きだった他のヒロイン達と付き合う可能性が消失したことから、その気持ちの矛先を一身に受けるという意味で責任が生じます。だからシャールカは人前でいちゃいちゃ出来なかったし、叶の自宅でも行為に及ぶことができなかった。結局はどう生きても責任が及ぶということなのでしょう。

 

  4、幻想を現実に

 

  叶は、ずっと子供のままでいたいと心根では思っている人間です。彼は幼少のころ天使からループを取り上げられたあと、他の人間とは違うという疎外感を感じており、自分のアイデンティティを守るため、その反動から悪に傾倒するようになります。これは子供が自分を主張するために悪いことに走るのに良く似ています。

 出発点において、叶の悪は自らの傷を塞ぐための幻想だったのかもしれません。にもかかわらず、彼はその生き方に積極的な意義を見出し、周りの人間を巻き込んだ。この時幻想は現実になった。彼自身が悪であることを生きて示したことによって現実に昇華し、彼は信頼され彼の決断にみんなは従おうと思うようになった。

 

 5、人格

 

 叶えが選択したことによって、ループする世界が継続し、人々は選択をすることをやめ流されるように生きることとなり、やがて人格が消失していくことになります。それは子供の世界と言っても良いかと思います。

 それは、叶とシャールカの様な現在を重視して流されるように生きる、人格のない人間が世にあふれるということです。

 しかし、そもそも人格なんてあるのでしょうか?過去から現在、そして未来まで一直線で貫通するような人格ってあるのでしょうか?

 人間、価値観は経験、受け取り方によっていかようにも変わるものだと思います。連なっているように見えても、それは川に点在する飛び石のように、線があるように見えるだけのものだと思います。

 つまり、連続する人格なんてないのですから、他人についても確定的な何かであるとは言えないのです。

 『シャールカ先輩はかわいい → シャールカ先輩は俺にかわいいと感じさせる女の子だ』

 シャールカ先輩がかわいいという客観的事実があるのではなく、あくまで受け手である自分がかわいいと感じ取っているだけです。

 『俺の先輩への思いは、俺の中にあるんじゃない。俺の先輩への思いは、先輩の中にこそ存在する』

 この考えは、思いを相手に投げだしているように見えて無責任に思えるかもしれません。しかし逆に考えると分かりやすいです。

 『俺が先輩に愛おしいと感じさせている。だから、先輩を愛おしく感じさせている責任は俺にある』

 だから、相手から受けるすべての責任は発信源である自分なのです。相手は自分を映す鏡といった慣用句には、このように豊潤な意味を含んでいるのではないでしょうか。そしてこの事実に気付いたとき、自分の世界が広がったように感じませんか?

 

 6、※この物語は、フィクションです。

 

 ただし、例外として、連続する人格があります。それがエロゲ、小説などの物語や手紙です。それには地の文があります。それはセリフの連続性をつなげる役割があります。しかし現実は地の文を感じ取ることはできません。だからこそ、この現実では世の中に地の文はないこと、受けてによって感じ方が異なることを理解し、現実に相手の気持ちを感じ取る訓練が必要なのではないでしょうか?

 

 

 

 

・・・とりあえず、思いのたけを打ちまくりました。後日修正があると思いますのでそのつもりで。