そして誰もいなくなった。

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<<考察>> -エロゲー- 「猫撫ディストーション」

 

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  「猫撫ディストーション」を最初にクリアしたのは、およそ1、2年ぐらい前だったと思いますが、当時、非常に感銘を受けた記憶があります。自分の意思によって世界を選択できるなんで、なんて崇高な事なんだろう!と、大真面目に信じておりました。

 

 最近になって、もう一度プレイしようと思い立ち、大好きな「琴子ルート」の攻略にかかりました。そして、昨日になって一通りクリアし終えました。これで、「琴子ルート」については、2週したことになるのですが、1週目の時と、だいぶ違った印象を受けています。

 

 この作品自体、1週だけではこの作品の本質を読みとるのが難しいんじゃなかろうかと感じます。(まぁ私が本質を理解しているという自信はないですが)

 

 1週だけして、前の私のように「自分の意思によって世界を選択できるなんで、なんて崇高な事なんだろう!」なんて知った風な口を言っていたら、ちょっとイタいやつかもしれません(笑)ぜひ周回プレイをおすすめします。

 

 

 

 

以下、ネタばれのため閲覧注意

 

 

 

 

 まず、一番最初に注意しないといけないのは、ふたご座流星群の降る日に、量子ビームを打ち出す実験をしたことによって、過去方向に影響を与えているということです。だからこそ琴子が蘇ったりと、いろいろ不可思議なことが起きています。

 

 ただ、それは副産物みたいなもので、きちんとその量子ビーム実験で余剰次元を巻き込んだ後は、彼ら彼女らは電子化されて、樹は観測したいものを観れるようになります。

 

 SF的な話でいえば、ブラックホールを自己生成して、電子世界と、この現実(作品上は、余剰次元があるという前提で進んでいますが)を融合させよう、みたいな感じですよね?

 

 と、まぁざっくりしすぎで、かつ間違っているかも分からない説明でしたが、個人的には、大事なポイントはそんなところではなくて、「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界(つまり、この現実)」にこそ作者のメッセージが込められてるんじゃないかと思います。その意味においては、やっぱり琴子ルートこそtrueルートなんじゃなかろうかと思います。

 

 七枷電卓の手記に、「我々は認識という手段だけでは、世界に干渉できない。微視系の事象ならともかく、巨視系の事象については、手も足も出ない。」という記述があります。つまるところ、作者も分かっているのです。意思によって世界を選択することができるなどこのマクロの世界ではありえないと。

 

 そう考えてみると、琴子を観測した世界も、ギズモを観測した世界も、その他のだれかを観測した世界も茶番でした、と言ってしまえそうな気もしますが、どちらかというと「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界」に物語を収束させるための布石だったのかもしれません。(その意味で言うと、SFなんてガジェットを使うなんてすごい回りくどいことをしてるように思いますが、必要な手続きであったことが今は理解できます。)

 

 「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界」において、樹はいるはずのない琴子に話しかけます。

 

 おそらくそれが可能なのは、樹が琴子を観測したいという思いと、琴子が樹を観測したいという思いが重なり合い、なおかつ、ふたりの関係性をお互いに同じ言語によって共有していたからだと思います。

 

 「家族は揺るがない」AVGということで、キャッチーなコメントが箱の裏面に印字されていますが、逆に家族という関係が揺らぐ事の方が想像しにくいでしょう。なぜならそれはお互いがお互いを家族と認識しているから。揺らぐ関係性の多いこの世界で、希少な「揺らがない」関係性と言えるでしょう。

 

 そのくらい、互いが互いに同じ関係性を求めている状態というのは強固であるが故に、誰でも求めたくなる境地と言えます。がしかし、この現実世界で相手の真意を汲み取ることが不可能であることは周知の事実です。

 

 では、あきらめないといけないのか。その圧倒的現実に。

 

 作品に耳を傾けてみましょう。ふわりと内声が聞こえたような気がします。

 

 相手の真意を汲み取ることが不可能である以上、こちらが取れるアクションというのは、「ただ求めること」にあるように思います。だって求めることすらしなかったら、「同じ世界を観ること」なんてありえないのだから。

 

 家族はお互いが家族であるという認識から成り立つものであり、その中に異分子が1人でも混じり込んでいたら、それはもうだれでも直感的におかしいと思うでしょう。そのくらい家族という関係性が強固であると気付くと同時に、現実世界にその関係性を築けている以上、その関係性を成就させることは不可能ではないのです。

 

 

 「―――世界は重なり合っているの」

 

 

  ただそうでありたいと求めること。それこそが不可能を可能にする手掛かりなのかもしれません。