そして誰もいなくなった。

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<<考察>>  -エロゲ―- 「装甲悪鬼村正」

 

 

「MURAMASA」- 装甲悪鬼村正 - /小野正利

「MURAMASA」- 装甲悪鬼村正 - /小野正利

 

 

 

 

 

 

 

※ネタばれ注意。

 

 

 

 

 

 

 

1.私のした行為に対して、復讐されることを許せないのなら、私はその行為をしてはならない。

 

 

例えば、私が人を殺めたとして、その被害者の関係者から、私の大切にしていた人達が殺されたとしても、それについて私は何も文句を言うことはできない。

 

なぜなら、すべての契機は私が殺人をしたことから始まっており、私が殺人さえしなければ復讐されることもなかったからである。

 

これは哲学でも何でもなく、道理だ。

 

善とか悪とかそういう問題ではなく、私が他人からされたくない行為を私がしてはならない。

 

私がその行為をしてしまうということは、他人からその行為をされることを容認するということになるのだから。

 

...そんなことを考えていると、善、悪などの哲学的問題なんかよりも、道理というものは、なんの疑いようもない論理的帰結であると悟ります。

 

 

 

 

 

2.「これは、装甲悪鬼村正の物語である。」

 

 

人を殺すということは、どういうことだろうか?

 

一つの側面として、被害者の言論を封殺する、ということがあると思う。

 

被害者の言論を封殺するということは、被害者が求める責任を、加害者が受け付けないということである。

 

湊斗景明は、三世村正と争いのないところへ逃避行しようとする。それはつまり過去の行いについての悔いがあったからに違いない。

 

だがその場合、彼の正義感によって殺された人達の死の意味はどうなるのだろう?

 

彼がその正義感を途中で挫折するということは、その瞬間、今まで彼に殺された人達の死の意味が無価値化するということである。

 

被害者は、責任を求める糾弾の声を封殺され、なおかつ、意味もなく殺されるのである。ほんとうに、ただ、死んだだけ。

 

そんな人道にもとる行為を私たちは許せるはずはない。

 

だから、正義を基に振りかざした刃は、その道を最後まで貫きとおさないといけない。被害者の死を無意味にしないためにも。

 

己の正義のために一人殺したのなら、そこから先は修羅の道。

 

故に、この物語は、装甲悪鬼村正の物語である。