そして誰もいなくなった。

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<<考察>> -エロゲ―‐ 「カルマルカ*サークル 夏目暦編」

 

カルマルカ*サークル 通常版

カルマルカ*サークル 通常版

 

 

たったいま、夏目暦編、クリアしました。

 

めっちゃ良い話でした。飽き癖の私がもう少し長くても良かったと思えるくらい、満足のいく完成度を誇っていたと思います。これでもう暦ちゃんとお別れと思うと、ちょっとさみしくなりますね...。

 

もともとカルマルカサークルについてはちょっと気になっていて、いいなぁとか思っていたんですけど、評判を見る限りでは評価が芳しくなくて手を出さずにいました。

 

ただ、最近私が疲れてきたのもあって、癒されたいという気持ちに軸が振れていたことから、絵柄のかわいい「カルマルカサークル」に元気をいただこうと思い、ようやく最近になってから購入を決意しました。

 

もともと私は、購入する前にどんな作品なのか?(シナリオゲー?キャラゲー?)どのくらい評価されているのか?を調べてから、購入する、しないの判断をしています。で、カルマルカサークルについては、「キャラゲーだろ。」という先入観を基にプレイしていました。私は、キャラゲーだと判断した作品をするときは、シナリオの不備、矛盾とかがあってもあんまり気にしません。シナリオを見ながら脳内アニメ化にしたりするので、細かいところが気にならなくなるからかもしれません。

 

シナリオゲーより、キャラゲーの方が、一文一文しっかり楽しもうというモチベーションでプレイしているので、どちらかといえば、キャラゲーの方が、キャラクターに愛着がわきます。今回のカルマルカサークルについては、その振れ幅がより顕著だったかなと感じているところです。(まだ暦しかしてませんが...。)

 

 

そんな感じで、暦。絶賛中です。

 

暦のストーリーについていろいろ語る前に、先にシステムの不満点から書いていこうと思います。

 

このコメントをさんざんとネット上に残してますが、

「最後にfinを入れろ!」

というのがまずコメントになります。余韻がぶった切れて現実に引き戻される感が半端ないです。暦との超えられない断絶を感じます。好きなキャラクターであるほどショックなのでどうにかしてほしいです。

 

今のところ不満点は...それくらいですかね。逆にそれ以外はすべて良いですね。

 

では本題ということで、考察ってほどでもないですが、感想を書いていこうと思います。

 

あらすじとしては(ネタばれ注意)

 

児童養護施設で育った夏目暦が、星渡り同好会のメンバーたちと出会って、児童養護施設への無償の寄付についての道徳的問題について意見しあったり、暦と同じ境遇にある親なき子の精神的なサポートをしたり、これからの自分の歩む道について考えたりするような話です。

 

人生的な広がりがあって、連続的につながっていると思っているので、あまり切り取って話してしまうと、それはそれで魅力を十分に伝えきれないような気がしますが、今回は、自分の歩む道についての暦の惑いのところについて思うところを書いていこうと思います。

 

 

1.『君は誰だ?』

 

私は、〇〇の子供で~、、、という説明をしたところで、それが「私」を語っていることになるのだろうか?その親が存在しなかったら?そしたらまた、自分を説明する枝番をつけないといけないことになる。私は、〇〇生まれで~、、、果たしてどこまで枝番をつければ私という存在を説明することができるのだろうか?

自明な解答だが、どこまで枝番をつけたとしても私を説明したことにはならないのである。枝番が消滅してしまえば、理屈の上で私という存在は消滅してしまう。

幼いころの暦はこの問いに賢い返事をした。

「・・・・・私は、だれでもありません。」

他のだれでもないということが、私の個性の証明になっているのだ。

この回答を聞いた師匠は、暦に対して「君」という存在について、一つの呼称をつけることにした。

「君は、私の弟子だ。」

 

2.自分の進むべき道は自分で決めないといけない。

 

暦は、幼いころから児童養護施設で育ててもらい、そして在籍する学園では特待生として奨学金を借りていたりと、あらゆる社会的な援助を受けて育って生きてきた。

そんな彼女に、研究者として留学してみないかという話が舞い込んできた。理事は留学するように強く進言してきた。葛藤はあったが、最後は留学を受け入れた。それが社会的に期待されていることだと暦は自認していたから。暦は今までの人生の重要な局面においては、みんなの期待に応えるような行動をとってきたに違いない。だって今まで、社会のシステムに直接支えられて生きてこられたのだから。

理事はあらゆる手を使って、暦を留学しようと手を回していたが、はたしてこの行動というものは批判されるべき対象なのだろうか?のちのちのテキストで、「教育者としての矜持、親心があったのかも知れない。」と海人が回想しているが、確かにその一面があることを私たちはふと忘れてしまうことがある。

海人は、社会的な価値基準の天秤に従った暦に、もう一度、自分の意思で選ばないかと説得する。「俺は、暦の選んだ道についていく。お前がどんな決断をしても、決しておまえを見捨てない。だから、なんとなくでもいい。あらゆる障害を取っ払って、気持ちの赴くままに答えを出してくれ。」

その説得を受けた暦は、一つの願いを口に出す。「もし・・・、わたしが心から望むことがあるとしたら・・・。」

「それは・・・、海人くんと、一緒にいることです・・・。」

一度堰を切った口からは、ぽつぽつと希望が口からあふれ出てくる。暦は自分には選択できる意思がない、みんなの希望に沿うように生きてきただけ、というようなことを言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか?大きな決断を迫られた時、無意識のうちに自分の願いを抑圧して生きてきただけではないのだろうか?

みんなの希望に沿って生きていくということは、すなわち、他人の選んだ道を歩むということである。果たしてその歩んだ道は、自分の歩んだ道なんだと誇りを持って言い張ることができるのだろうか?自分の人生を生きた、と納得することができるのだろうか?

 

 

3.「君は、私の弟子だ。」

 

師匠は、普通の人だった。自分の人生に迷いがあって、幼いころの暦が思うような完璧な存在などでは決してなかった。そんな人間が、あたかも自らを「師匠」として、暦に対し私が君の人生の道しるべとなる存在なんだと誤認させるような発言をする。暦にとって師匠は、幼少期を支えた大切な存在だったので、暦の精神的支柱であったことは想像にたやすい。

一連の騒動を終えた暦は、その発言の真意について一つの解をだす。

「わたしと師匠は異なる値をもつパラメータで構成された、同じ関数だったのではないでしょうか?」

「今の過程が正しければ、わたしが弟子である理由は不定です。」

「なぜなら、トートロジーに解はありません。」

暦が絶対的な信頼を寄せていた師匠でさえも、ただ普通の、この世に生きる一人の人間だったのだ。師匠、弟子なんてものは存在しない。人生を決めるのは、師匠ではない。人生を選び取るのは、暦自身だったのだ。

 

4.

 

Q.『君は誰だ?』

 

A.わたしは、わたしです。