そして誰もいなくなった。

書評、エロゲ―の批評等しています。感想、考察は基本ネタばれになります。閲覧にご注意ください。

<<感想>> -エロゲ―- 「向日葵の教会と長い夏休み」

 

向日葵の教会と長い夏休み -extra vacation- 通常版(特典なし) - PSP

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雛桜ルートが大変良い出来でした。今回はネタばれなしで感想を書いていこうと思います。

 

雛桜以外のヒロインについては残念ながらスキップしたので、そこについては何も語ることは出来ませんが、雛桜ルートだけでも充分価値のある作品です。

 

雛桜ルートが、どんな雰囲気のお話かざっくり教えてくれと言われましたら、

 

「・・・・・どこまでもお子様だな。大人の社会は君が思うほど単純じゃない」

 

という、ある人物の一言がこの物語を的確に表しているように思います。

 

それぞれの立場、それぞれの思い、それぞれが歩んできた人生。どのキャラクターの心情もよく理解できます。発せられた言葉だけが真実とは限らない。だから私たちは相手の気持ちを推し量ることでしかできなくて。でもそれがお互いにから回りして・・・・・。

 

そんな単純でない現実の世界と、ちょっぴりファンタジーな猫のお話。

 

ピースが一つでも欠けていたらこの物語は成立しなかっただろうなと思わせる、奇跡的な何かを感じます。

 

BGMもとても良かったです。公式サイトで「雰囲気ゲー」と謳っているだけはあります。「雰囲気ゲー」というとあまり好意的な印象は持ちませんが、BGMとヴィジュアルで醸し出される雰囲気が良い、という意味で「雰囲気ゲー」というのなら、まさしく一級品の作品だった言えるでしょう。

 

 

 

 

・・・

 

 

 

 

変わらないものがある。

 

 ―――それは、相手との関係性だったり。故郷の在りかだったり。

 

 

 

変わってゆくものがある。

 

 ―――でも、今という瞬間は過ぎ去って。変わらないと思っていたものも変わってゆくこともあるだろう。若しくは、もう変わってしまったことを自覚しているかもしれない。

 

 

 

それでも―――帰りたくなる場所がある。

 

 ―――それでも私たちは過去でも未来でもない、今を生きているのだから。

    ささやかで、とっても身近な希望を胸に...

    

    『希望の前で、待ち合わせ』

    それは今を生きる貴方へ送る、エールの言葉。

 

 

 

 

 

 

<<感想>> -エロゲ―- 「フレラバ ~Friend to Lover~」

 

 

 

 

陽茉莉ルートがすごく良かったので感想を書いていこうと思います。

 

 

 

<ネタばれ注意、未プレイの方は閲覧しない方がいいです>

 

 

 

 

 

幼少の頃から仲の良かった、青葉恭介と皆原陽茉莉は青葉家の引っ越しに伴いお互いは離れ離れになった。お互いにメールアドレスを交換していなかったこともあって、恭介が転校してからは二人は疎遠状態となっていた。

 

時は過ぎて二人は高校へ進学することとなり、偶然にも同じ高校へ進学することとなる。互いに相手の存在を知りつつも、疎遠状態であったことの気まずさや複雑な心境があって積極的に話しかけるようなことはしなかった。

 

そして高校二年生となり同じクラスに進級することになる。二年生になってからは恭介の方から積極的にアプローチをかけ、それが功を奏しお互いは付き合うこととなった。

 

デートを重ね親密になった頃、恭介は陽茉莉の実家に上がり彼女の部屋でのんびりくつろいでいた。傍にいる彼女はすやすやと眠っているようだ。

 

幼少の頃からあまり変わらない陽茉莉の部屋、なつかしくていろいろ物色していると一冊のノートが棚から落ちてきた。めくってみると中から、恭介へのラブレターが挟まっていた。恭介の引っ越しの後、しばらくしてから書かれたラブレター。しかしそれは渡すことを前提に書かれたものではなく、自分の気持ちをここで完結させるために書かれたものだった。

 

『みんなから、いっぱい冷やかされたこともあったけど・・・・・』

『わたし、ずっとあなたのことが好きでした』

『あと、一つだけどうしても謝りたいことがあります』

『学校でいつも私が隣にいたんじゃ、当然男子から色々言われるよね』

『私、すごく今まで無神経だった。昔からずっと一緒にいたからって、男子側の都合も考えなくちゃ駄目だよね』

『私も、卒業を機会にちょっと幼馴染み離れをしようと思います』

『どうか、楽しい学校生活を送ってください。私もいっぱい友達が作れるように頑張ります』

『それじゃ』

 

 幼馴染であるが故の葛藤。胸に秘めた思いに陽茉莉はふたをした。

 

それを知った恭介は、高校に入学してから陽茉莉が喋りかけてこなかったのは、子供のころと同じように恭介に迷惑がかかると思い込んでいるからだと察する。

 

『―――なぁ、陽茉莉』

『お前ケータイ買ったとき、俺にわざとアドレスを教えなかったんだろ?』

『え?違うよ?だからそれはお母さんが』

『さっき陽子さんに聞いたら、そんな話知らないっていってた』

『なぁ、本当のこと言ってくれよ。お前きっと、俺に色々と気を遣って黙ってたんだろ?』

『・・・・・・・』

 『お前、また俺が新しい学校で孤立しないように、わざと話しかけてこなかったんじゃないか?』

『どうせ俺の迷惑になるとか、そんなことばっか考えて・・・・・』

 

 

『――――違うよ』

 

 

陽茉莉は、恭介の推察を否定する。事実そうではなかったのだ。

 

幼少の陽茉莉は、恭介に迷惑をかけたくないという気持ちと同時に、自分が恭介に抱いた好意というものが、幼馴染の延長線上に芽生えたものなのか、それとも純粋に異性として抱いたものなのかがあの頃は判別が付かなかった。だからこそラブレターは恭介に渡されることもなく押し入れの中にしまいこんでいたのだった。

 

卒業して、別々の学校に行っても恭介の事が好きだったなら、告白をしよう―――。そう思っていた陽茉莉だったが、進学先でも楽しいことはいっぱいで。徐々に恭介への思いは薄れていった。だから、同じ高校に進学したと分かった時でも特別話しかけるようなことはしなかった。

 

それに、もう一度恭介の事を一から好きになったのなら、それはそれで、とても素敵なことだと思ったから。

 

『その結果は?』

『・・・・・・』

『えへへ、結果はこの通り』

『私、結局二回も好きになっちゃった・・・・・』

 

陽茉莉は恭介の事を、単なる異性とか幼馴染とかいう記号ではなく、一人の人間として、一人の存在として恭介の事を愛していたのであった。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

うーん、素敵な話でした。SMEEの作品はこれが初めてでして、これなら「ピュアコネクト」も期待できそうですね。ピュアコネクトの方は絵柄が個人的にイマイチでして、絵柄とOPがイマイチな作品はあまり食指が動かないのですが、フレラバの特に陽茉莉ルートが特に面白かったので、ブランドに期待してピュアコネクトの方も買ってみようかと思います。

 

がっつり読んでいたのが陽茉莉ルートだけだったので、どうしても陽茉莉だけの話になってしまうのですが、女の子らしい女の子で、生きたキャラクターを作るのが大事というのが物語の基本だと思いますが、まさにキャラクターとして生きていて、良いシナリオだったと思います。

 

 

 

 

 

 

 

<<考察>>  -エロゲ―- 「装甲悪鬼村正」

 

 

「MURAMASA」- 装甲悪鬼村正 - /小野正利

「MURAMASA」- 装甲悪鬼村正 - /小野正利

 

 

 

 

 

 

 

※ネタばれ注意。

 

 

 

 

 

 

 

1.私のした行為に対して、復讐されることを許せないのなら、私はその行為をしてはならない。

 

 

例えば、私が人を殺めたとして、その被害者の関係者から、私の大切にしていた人達が殺されたとしても、それについて私は何も文句を言うことはできない。

 

なぜなら、すべての契機は私が殺人をしたことから始まっており、私が殺人さえしなければ復讐されることもなかったからである。

 

これは哲学でも何でもなく、道理だ。

 

善とか悪とかそういう問題ではなく、私が他人からされたくない行為を私がしてはならない。

 

私がその行為をしてしまうということは、他人からその行為をされることを容認するということになるのだから。

 

...そんなことを考えていると、善、悪などの哲学的問題なんかよりも、道理というものは、なんの疑いようもない論理的帰結であると悟ります。

 

 

 

 

 

2.「これは、装甲悪鬼村正の物語である。」

 

 

人を殺すということは、どういうことだろうか?

 

一つの側面として、被害者の言論を封殺する、ということがあると思う。

 

被害者の言論を封殺するということは、被害者が求める責任を、加害者が受け付けないということである。

 

湊斗景明は、三世村正と争いのないところへ逃避行しようとする。それはつまり過去の行いについての悔いがあったからに違いない。

 

だがその場合、彼の正義感によって殺された人達の死の意味はどうなるのだろう?

 

彼がその正義感を途中で挫折するということは、その瞬間、今まで彼に殺された人達の死の意味が無価値化するということである。

 

被害者は、責任を求める糾弾の声を封殺され、なおかつ、意味もなく殺されるのである。ほんとうに、ただ、死んだだけ。

 

そんな人道にもとる行為を私たちは許せるはずはない。

 

だから、正義を基に振りかざした刃は、その道を最後まで貫きとおさないといけない。被害者の死を無意味にしないためにも。

 

己の正義のために一人殺したのなら、そこから先は修羅の道。

 

故に、この物語は、装甲悪鬼村正の物語である。

 

 

 

 

 

<<考察>> -エロゲー- 「猫撫ディストーション」

 

猫撫ディストーション 予約特典 特製プレミアム小冊子
 

  「猫撫ディストーション」を最初にクリアしたのは、およそ1、2年ぐらい前だったと思いますが、当時、非常に感銘を受けた記憶があります。自分の意思によって世界を選択できるなんで、なんて崇高な事なんだろう!と、大真面目に信じておりました。

 

 最近になって、もう一度プレイしようと思い立ち、大好きな「琴子ルート」の攻略にかかりました。そして、昨日になって一通りクリアし終えました。これで、「琴子ルート」については、2週したことになるのですが、1週目の時と、だいぶ違った印象を受けています。

 

 この作品自体、1週だけではこの作品の本質を読みとるのが難しいんじゃなかろうかと感じます。(まぁ私が本質を理解しているという自信はないですが)

 

 1週だけして、前の私のように「自分の意思によって世界を選択できるなんで、なんて崇高な事なんだろう!」なんて知った風な口を言っていたら、ちょっとイタいやつかもしれません(笑)ぜひ周回プレイをおすすめします。

 

 

 

 

以下、ネタばれのため閲覧注意

 

 

 

 

 まず、一番最初に注意しないといけないのは、ふたご座流星群の降る日に、量子ビームを打ち出す実験をしたことによって、過去方向に影響を与えているということです。だからこそ琴子が蘇ったりと、いろいろ不可思議なことが起きています。

 

 ただ、それは副産物みたいなもので、きちんとその量子ビーム実験で余剰次元を巻き込んだ後は、彼ら彼女らは電子化されて、樹は観測したいものを観れるようになります。

 

 SF的な話でいえば、ブラックホールを自己生成して、電子世界と、この現実(作品上は、余剰次元があるという前提で進んでいますが)を融合させよう、みたいな感じですよね?

 

 と、まぁざっくりしすぎで、かつ間違っているかも分からない説明でしたが、個人的には、大事なポイントはそんなところではなくて、「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界(つまり、この現実)」にこそ作者のメッセージが込められてるんじゃないかと思います。その意味においては、やっぱり琴子ルートこそtrueルートなんじゃなかろうかと思います。

 

 七枷電卓の手記に、「我々は認識という手段だけでは、世界に干渉できない。微視系の事象ならともかく、巨視系の事象については、手も足も出ない。」という記述があります。つまるところ、作者も分かっているのです。意思によって世界を選択することができるなどこのマクロの世界ではありえないと。

 

 そう考えてみると、琴子を観測した世界も、ギズモを観測した世界も、その他のだれかを観測した世界も茶番でした、と言ってしまえそうな気もしますが、どちらかというと「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界」に物語を収束させるための布石だったのかもしれません。(その意味で言うと、SFなんてガジェットを使うなんてすごい回りくどいことをしてるように思いますが、必要な手続きであったことが今は理解できます。)

 

 「琴子が死んでしまった世界。何も変わらなかった世界」において、樹はいるはずのない琴子に話しかけます。

 

 おそらくそれが可能なのは、樹が琴子を観測したいという思いと、琴子が樹を観測したいという思いが重なり合い、なおかつ、ふたりの関係性をお互いに同じ言語によって共有していたからだと思います。

 

 「家族は揺るがない」AVGということで、キャッチーなコメントが箱の裏面に印字されていますが、逆に家族という関係が揺らぐ事の方が想像しにくいでしょう。なぜならそれはお互いがお互いを家族と認識しているから。揺らぐ関係性の多いこの世界で、希少な「揺らがない」関係性と言えるでしょう。

 

 そのくらい、互いが互いに同じ関係性を求めている状態というのは強固であるが故に、誰でも求めたくなる境地と言えます。がしかし、この現実世界で相手の真意を汲み取ることが不可能であることは周知の事実です。

 

 では、あきらめないといけないのか。その圧倒的現実に。

 

 作品に耳を傾けてみましょう。ふわりと内声が聞こえたような気がします。

 

 相手の真意を汲み取ることが不可能である以上、こちらが取れるアクションというのは、「ただ求めること」にあるように思います。だって求めることすらしなかったら、「同じ世界を観ること」なんてありえないのだから。

 

 家族はお互いが家族であるという認識から成り立つものであり、その中に異分子が1人でも混じり込んでいたら、それはもうだれでも直感的におかしいと思うでしょう。そのくらい家族という関係性が強固であると気付くと同時に、現実世界にその関係性を築けている以上、その関係性を成就させることは不可能ではないのです。

 

 

 「―――世界は重なり合っているの」

 

 

  ただそうでありたいと求めること。それこそが不可能を可能にする手掛かりなのかもしれません。

 

 

 

<<雑記>> 税理士試験について

ひさしぶりに投稿します。

 

1月といったら、資格専門学校の税理士講座の授業が始まるシーズンですよね。そろそろみなさんも重い腰をあげて、勉強に励みだしたことだろうと推察します。

 

わたしも官報合格目指して、ひたすら勉強しています。

 

他の資格の勉強法については意見する立場にないですけど、税理士試験に関して言うなら、「集中できる環境」で「どれだけやったか」に尽きると思います。

 

わたしは頭が客観的に見ても悪いので、当初の模擬試験とかは、まぁ惨憺たる結果でしたけれども、ひたすらやっていたら徐々にですが成績も上がっていきました。

 

効率の面でいえば、まちがった箇所だけピックアップして、そこを重点的に復習する方が、力も付くのかもしれませんが、同じ問題を解きなおすというのも、スピードが上がるし、精度も高まるし、自信もつくのでそれはそれでアリなのかな、とは思います。

 

というか、「効率」云々より、まずは「ひたすらやれ!」と個人的には言いたくはなるのですが。そんだけ本気でやっている人が少ないような気がします。(ちなみにこの「ひたすらやれ!」っていうのは、問題を解きまくれっていう趣旨ではなくて、教科書もすみずみまで読みとおすぐらいの「ひたすらさ」を指しています。)

 

正直なところ、残業の多い事務所は、税理士試験には向いていないと思います。特に税法は、ほぼ毎日机に向かうぐらいじゃないと、確実に合格できるレベルまで引き上げられないと思います。もちろん土日は休日ではありません。絶好の勉強日和ですよね(死)

 

...そんな訳で、最近のブログの更新が滞っています。あんまり税理士というものにも希望を感じなくなってきましたが、前へ走り出したからには最後まで走り抜けなければなりません。

 

<<書評>> -その他- 「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」

 

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

 

 

エロゲ―界きっての、哲学ゲーと評される「素晴らしき日々」に興味を持つ人は、「論理哲学論考」という著作についても、興味を持たれているかもしれません。

 

とはいっても「論考」を、原文のまま、注釈ありで読んでも、まったく私は理解不能だったので、初心者でもわかるような解説本を探していました。

 

そのときに読んだのがこの本でした。ただ、この本は枝葉の解説本という訳ではなく、論考に通底するロジックと快感を、一般の読者にも追体験してもらえるような構成になっています。

 

かなり読み応えのある本で、私は序盤、パラパラとスムーズに読めてたのですが、章が進むにつれて読むのがキツくなって、飛ばし読みをしながら一通り読了しました。読後残ったのは、「よく分からん」の一言。

 

さすがに、これじゃアカンなと思って、とりあえず「素晴らしき日々」の哲学的考察にも関係しそうな、本書第13章「死について、幸福について」を読み返しました。一週目よりも理解できることが増えて、ちょっと面白くなってきて、二週目、三週目と読み返しました。すると第13章の背景になっているロジックも気になりだして、章を遡って読み返しました。おもしろいおもしろい。(索引が付いているので、言葉の定義も容易に再確認できます。)

 

結局のところ、第13章は6週ぐらい読み返しました。やっとこさ、なんとなく理解できた気がしています。

 

かなり含蓄のある本なので、サラっと読んでも分からないと思いますが、丹念に読み込めば、ちゃんと読者にも理解しやすいように、著述されていると思います。(とりあえずすごかったとしか言いようがない...。)

 

では、第13章が大好きなので(笑)わたしの理解している範囲で、内容を整理していきたいと思います。(だいぶ誤りがあるかもですが、私の思考の整理という意味でも書いておきたいと思います。)

 

1.神秘

 

論理哲学論考は、世の中の「語れるもの」「語りえぬが、指し示すことができるもの」「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものを分別した著作であると言えます。

 

みなさんが 、語ることができる範囲は、論理空間の中にしかありません。

 

論理空間とは、要素命題に真理操作をした言葉の集合空間と思えばいいです。

 

要素命題・・・「ポチは白い」などの単純な命題。

真理操作・・・命題が真となるような操作。(否定命題「ポチは白くない」のような命題も像【可能性。実体と必ず対応している】の一部だと著述されていますが、ここはよく理解できませんでした。)

集合空間・・・ヴァーチャル空間をイメージするといいかも。

 

 わたしの中での論理空間のイメージは、ヴァーチャル空間上に「ポチは白い」などの記述が浮かんでいるイメージです。

 

命題には、必ず実在する対象があります。対象の範囲内には、ポチなどの固有名も含まれますが、「~は白い」などの性質語、「~は兄弟である」などの関係語を含みます。

 

わたしが考えるに論理空間というのは、「目に見える可能的事態」のことなんじゃないかなぁと思います。(かなり大雑把に言っていますが)人が、語ることができるものは限られています。例えば、論理空間に位置する、論理語の「または」などは、論理空間上に「または」しか存在しない場合、指し示す対象がないので、その言葉単体ではまったくのナンセンスになってしまいます。

その意味で論理語は、「語りえぬもの(それ自体が実体を表さない)」になりますが、僕たちは、論理語のルールを理解しているので「語りえぬもの」ではありますが、「指し示すことができるもの」ではあります。

その他にも、「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」として、「無限」が挙げられます。1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?という問いがあった場合、私たちは、いちいち数を数えなくても、無限について直感が働くので、自然数になると解答することができますが、本当の意味で語るとなれば、一つ一つ証明しなければなりません。しかし、現実的に考えてそれは不可能です。なぜならそれが無限だから。

その意味で語ることは不可能ですが、無限になるという直感を指し示すことができるので、無限についても「語りえぬものではあるが指し示すことができるもの」になります。

 

では、「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものとは何でしょうか?

 

それが、ウィトゲンシュタインの言う、「神秘」です。この神秘の中には、いわゆる、『善悪、価値、幸福と不幸、あるいは美』、が含まれています。(ただ厳密にいうと「語りえぬもの」なので沈黙しなければなりませんし、「太郎が笑っている」だけでは、幸福が読みとれないように、「差し示されたもの」でもありません。)

 

さきほど、「1に1を足していく操作を続けていっても、自然数になりますか?」という問いを挙げました。ここでわたしたちは「無限」を感じ取りました。おそらく、だれに問いかけても、「絶対に自然数になります!」と答えると思います。その意味で操作は「必然的」と言えます。その操作は、論理的な構造を持っているので、言いかえると「論理」は必然的と言えます。(必然"的"というのも言いえて妙です。)

 

論理が必然的であるのと同時に、必然的としか感じ取れない地点があります。

 

それは「神秘(幸福)」です。

 

幸福は、語ることも示すこともできませんが、でも「幸福」があるとはだれでも”感じます"。その意味で、必然的だと感じとれます。

 

もう少し掘り下げると、わたしの語ることができる範囲、を示す論理空間は、命題によって構成されています。命題というのは、すなわち真偽を問うことができるものです。例えば「あのほらけ」などの意味不明な言語はナンセンスであって、真偽を問うことができませんので論理空間の中には存在しません。

 

そもそも、なぜ真偽を問える必要があるのかというと、

 

一つは、「あのほらけ」のような、理解不能なカテゴリーを「はじく」ためだろうと思います。理解不能な言葉は、可能的事態、つまり論理空間を構成しません。

 

二つ目は、あらゆる事態(a、bは死んだ)を想定したうえで、命題とを答え合わせ(aは死んだ)するかのように照合して、そこから"可能的事態"(死んでいるものを、生きているなんて言えないでしょ。)をを探るためだろうと思います。

 

(ちなみに先に述べた、否定的命題は論理空間上にありますが、否定的事態は存在しません。例えば、「ポチは白くない」で考えてみましょう。いまわたしが論理空間、論理空間言っているのは、わたしたちが語ることのできるものも見極めるためです。それは現実の出来事も見ているだけでは何も"語れるもの"は見えてきません。あらゆる想定が必要です。つまり可能的事態を検証することが必要です。「ポチは白くない」は事態を現していますから、こう言い換えることができます。「ポチが白くない"可能性"」。と、考えてみると『え?それって結局白いの?白くないの?』と疑問が湧きます。おそらく白くないと言いたいのでしょうから、そうするとこう言い表すことができます。『ポチが白くない可能性がある可能性』(笑)『えっ?で、結局どっちなの?』etc...。という、無限後退につながるので否定的事態というのは存在しません。論理空間を構成する事態は必ず対象とリンクされていることが担保とされていなければなりません。その意味で否定的事態を捉えてみると、「ポチは白くない」というのはあまりにも漠然としすぎだし、命題との照合にも不適格であると考えられます。)

 

ちなみに論理空間というのは、わたしの経験によってでしか空間を張ることができません。他人の論理空間を知ることはできません。もしかしたら「他人」にとっては「あのほらけ」は有意味な命題なのかもしれません。

 

まぁ、それは置いといて、先ほど「経験」という言葉を使いましたが、「神秘」は経験によって感じるものなのでしょうか?答えは言わずもがな、「はい、そうです。」ということになるでしょう。ということは、神秘というのは、何も天から降っておりてきたものではない、ということです。わたしたちは、神秘というものを経験によって感じ取れるからこそ、神秘というものに必然性を感じ取ることができるのです。

 

2.幸福

 

論理空間を構成する、命題は「名」の集合で表されます。この名の中には、「個体名、性質後、関係語」を含んでいます。例えば「ポチは白い」で言うと、「ポチ」は個体名「は白い」は性質語ですね。では幸福はどうでしょうか?幸福は性質語なのでしょうか?

 

いえ、違います。私は論理空間を「目に見える可能的事態」と定義しておりますが、「幸福」は目に見えません。つまり実体がないのです。「太郎は笑っている」は目に見えますが、「太郎は幸福だ」は目に見えません。つまり笑っているからと言って幸福だとは限らないということなのですが、すなわち、命題を構成しないということは、論理空間上に存在しないということなのです。「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものなのです。

 

ウィトゲンシュタインは語ります。

 

「よい生とは永遠の相のもとに見られた世界である」

 

永遠の相とは、時間空間を超越して捉えること(例えば、カレンダーを俯瞰して眺めるような)という風な説明をどこかの知恵袋で見ました(笑)まぁ、その理解はともかくとして、ウィトゲンシュタインは論理空間を俯瞰することが、永遠の相のもとに見るということに他ならないと述べています。

 

論理空間は時間を超越しています。例えば、「ウィトゲンシュタインは小学校の教師をしている」も「ウィトゲンシュタインは亡くなった」も論理空間の中に構成されています。つまりこの「ウィトゲンシュタイン」という固有名は、生死の事実に関係なく不動の実在なのです。そのことを永遠の相のもとに見ると言います。

 

では、その永遠の相のもとに対象を見ることがどのように、よい生、すなわち幸福につながるのでしょうか?

 

が、この問いに答えはありません。なぜなら、幸福は「語りえぬもの」だから。

 

そこで、ウィトゲンシュタインは私たちに、メッセージを送ります。

 

 

---『幸福に生きよ!』---

 

 

"世俗的な意味でどれほど苦難に満ちた人生であろうとも、幸福は訪れるはずだ。この信念、この希望"

"幸福の本質はいっさいの現世的な状態とは別のところにある。"

 

作中で述べられたことを引用しました。世俗的とは、神秘的の対義語という認識が正しいです。つまり、神秘と対義するものだから、すなわち、私たちの論理空間を指しています。

 

わたしたちの論理空間のなかで、例えどんなことがあったとしても、それは幸福とはまったく関係がありません。だって幸福は「語りえぬ」ものなんだから。

 

だけど、わたしたちは"幸福"はあるように感じています。では私たちはどうすれば、よき生、幸福になれるのでしょうか?

 

それは、「幸福な人になる」ことです。トートロジー【((pではない)ではない)ならばp、のような、なにを入力したとしても真になるような、必然的なもの】は、左記にも述べたとおり、何が起ころうとも必然的に真であるように、幸福な人は「必然的に」幸福なのです。

 

"「何が起ころうとも幸福である」と言いうる地点に立つためには、幸福を、論理空間の内部において現れてくるような個人の境遇の一種にしてしまう訳にはいかない。ウィトゲンシュタインの言う幸福とは、論理空間がそこに根ざしている私の生におけるものであるだろう。すなわち、幸福を享受する主体は、永遠の相のもとに世界を見てとっている私にほかならない。"--P303--

 

「幸福でありたい」のなら、事実をもとに派生していった論理空間のすべての事柄について、「幸福だ!」と言い切らなければなりません。それは、論理空間を構成する過去、現在、予測される未来のすべてにおいて。

 

「語ることもできないし、指し示すこともできない」ものは、すべて私たちの"意思"にゆだねられます。(ここにおいて、素晴らしき日々の、『心意気』というセリフの真意が理解できます。)

 

これは、ちまたによくある「なんでもプラス思考に捉えなさい」といった、単純なものではありません。

 

 

" 七 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。"

 

 

語りえぬが故、沈黙せねばならない、その沈黙の内側から差しだされる、論理空間という『器』を、幸福に生きる『意思』で満たすこと。かくして「論考」全体を貫くウィトゲンシュタインのメッセージは、次の一言に集約されます。

 

 

---『幸福に生きよ!』---

 

 

 

 

<<書評>> -ライトノベル- 「異世界が嫌いでもエルフの神様になれますか?」

 

 いや~、おもしろかった。最近のラノベはレベルが上がってるんじゃないのか、と感じましたね。「囲恭之介」さんですか...。他の作品も買ってみようかと思います。

 

ストーリーとしては、王道な作りになっていますが、テンポよく読ませる筆力は見事で、業界的には頭一つ抜けてるんじゃないでしょうか?想像力も掻き立てられるし、王道ながら続きも気になるし、純粋に読書っておもしろかったんだなぁ(笑)と再認識するような作品でした。

 

あらすじ、としては

 

ファンタジーが嫌いでしょうがない寒原兵悟が、自宅のガレージに設置した操縦席型巨大筐体ゲーム「戦塵のエキスマキナ」というロボSFゲームをを立ち上げようとした時、通信エラーが生じて気付いたら異世界ファンタジーにぶっ飛ばされていたというのが事の始まり。

 

侵略戦争あり、裏切りあり、思想の対立あり、とまさに王道な感じですが、各々の思惑が錯綜して物語が進んでおり、まぁおもしろいです。

 

ちょっとあらすじがざっくりしすぎな感じがありますが、読後感想を書いていこうと思います。(ネタばれあり)

 

1.好きと嫌い

 

寒原兵悟は、SFロボから人気を奪っていったファンタジーというジャンルが嫌いでしょうがなかったわけですが、久しぶりに会話したファンタジー好き、等々力束とのやり取りで、自分がなぜこれほどまでにファンタジーというものを嫌っていたのかが判明します。

「・・・・・こういうのって難しいよね。何かを好きだっていう純粋な気持ちが、いつの間にか歪んじゃって、別の何かを嫌う気持ちにすり変わっちゃうんだから。」

SFロボが好きであるが故に、人気を奪っていったファンタジーを憎んでしまっていたわけです。何かを信じる余り、何かを排他的になってしまうのは、一歩引いて考えてみれば健全な態度ではないことは明らかでしょう。

わたしも、時間の無駄、って思って避けてきたことが多々ありますが、無駄だと思っていたことが、案外無駄ではなかったってことも、これからはあるのかもしれません。

 

2.偽善と善

 

一神教だったリリパット族にとって、オリジナルの存在(神)が、二体もいることは矛盾でしかありません。つまり、エルフハイムには神はまだ降臨していないか、もしくは神は元から存在しなかったということになります。どちらにせよ、デウス・エクスマキナという存在は神ではないことが、ピュティに明らかになってしまいました。

メルクライラは、その弱点を突きます。

「あの男は、どこか遠くの安全な場所からセカンド・クリスを操り、神を自称して私達にちょっかいを出しているのです。可哀相なピュティ。あなたは、はじめから裏切られていたのですよ」

「これまで、あの男があなたを助けてきたのも、自尊心を満たすための我欲にすぎません。無条件で慕ってくれる信者を救い、感謝されるのは、さぞかしいい気分だったでしょうね」

見栄を張りたいがために、承認欲求を満たされたいがために、この男はちょっかいを掛けてきたのだと非難します。

しかし、ピュティは、神ではなかった、デウス・エクスマキナを擁護します。

「それこそ、おかしいです!他人のために何かをするということは、相手を思いやる気持ちと共に、そうしたいと願う欲があって当然ではありませんか。このお方は、それを誰よりも分かっておいでですわ。自己満足だと仰いながら、わたくしのために戦ってくれる・・・・・とても優しいお方です。神様は!」

「何を認めないというのでしょうか?わたくしは、ずっと認めていますわ。このお方は、わたくしにとっての神様だと」

わたしの知っている言葉で、「偽善を積み重ねれば、いつか善人になれる」というものがありますが、そもそも偽善と善に違いはあるのでしょうか?

善、というのは社会的な意味での言葉だと思いますが、そんなもん個人が把握するのは不可能でしょう。(モラルは確かにあるでしょうが...。)

あらゆる善行に配慮することが不可能である以上、個人が行う行為は、「偽善」でしかないように思います。つまり、偽善はいいことです。